三四郎

民族の祭典の三四郎のレビュー・感想・評価

民族の祭典(1938年製作の映画)
4.8
"藝術"とはこういうものだ!
とでも言われているかの如く美しい名作。
心揺さぶられる映画体験であり、なんとも高尚な作品である。

この作品はドキュメンタリーとは言えない。
レニ・リーフェンシュタール監督が人間の持つ究極の肉体美と躍動感、そして会場の臨場感を求めた演出・創作行為のある作品である。
が、しかし、だからこそ歴史に残るこのような美しい傑作が出来上がったのだろう。

私が最も優れていると思う棒高跳びシーンは、後日、日本人選手とアメリカ人選手、それに観客を集めて撮り直したものだ。
この映画は、日本とアメリカが競い合う場面が多く、日本対アメリカの構図が出来上がっている。それはまさにその後の大戦で戦火を交えることになる両国の前哨戦のように見える。

ラストはマラソンの表彰式。
日本人としてやはり「日の丸」と「君が代」で幕を閉じるのは悦である。しかし、1位と3位になった孫選手と南選手は韓国(朝鮮)人であった。誇らしく嬉しいはずの表彰台で俯いている姿が印象的だった。これは勝者の態度ではない。私は彼ら二人に、その抵抗の姿勢と祖国愛に敬意を表する。
それと同時に、日本は植民地の選手を日本代表として送り出したのだと思った。日本人選手を選出したいのが当然であろう。しかし、タイムで優れていた彼ら二人を日本代表として送り出したのだ。
ここには、「大日本帝国は植民地の人々も同じ帝国臣民として同等に平等に扱っている」という国際社会に向けた政治的アピールがあったかもしれない。しかしどちらにせよ、 韓国(朝鮮)人選手にも日本の選択にも拍手を送りたい。

この作品は、1年半の編集期間を経て1938年4月20日にドイツで公開され、1940年6月19日に日本で公開された。
オリンピック開催月の1936年8月から1938年4月のドイツ公開までの編集期間に日独防共協定(1936年11月25日)、日独伊三国防共協定(1937年11月6日)が結ばれている。
後世まで語り継がれることになるこの偉大な名作に日本代表の勇姿や日本人観衆が頻繁に映し出されるのは大変嬉しいが、メダル争いからかけ離れていた無名の日本人選手まで映し出されている。これは同盟国の特権だったのだろうか。あるいはレニ・リーフェンシュタール監督の藝術美追求に必要なシーンだったのか。

この映画は、日本での初公開後、戦前の観客動員数記録を樹立するという空前絶後の大ヒットを記録し、1940年のキネマ旬報外国映画ベストテン第1位を獲得している。
配給元の東和商事社史には「この年の秋は日本中が『民族の祭典』の人気に沸きかえった」と記されている。
当時の映画雑誌や本を読むと、映画関係者から知識人まで多くの人がこの映画について語っている。全国的に小・中学生の団体観覧まで行われた。
そして、1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結された。これはこれまでの防共協定とは異なる「軍事同盟」であり、日本がアメリカとの戦争へ突入する原因の一つになった重大な同盟だ。
つまり、映画が世論を動かしたと言えるのではないだろうか。
それまでメディアも知識人層もそして国民も、ユダヤ人迫害を行っているナチス・ドイツに好意を持っていなかったし、まして意識もしていなかったのだから。

映画監督吉村公三郎は後年、著書の中でこう記している。
「『民族の祭典』は…もしマラソンで日本が勝たなかったら、或いは日本選手が少しも出なかったら、あの感激は半減したであろう」

『民族の祭典』は、カメラマン46人、スタッフ総勢300人以上、40台のカメラを擁して撮影された。様々な角度からの撮影、スローモーションの多用とクロースアップ。
アナウンサーは、アフレコで経過から結果までの全てを知り尽くした万能の語り手であり、オリンピックが「国家同士の闘い」であり「民族の祭典」であることを強調している。

★1940年度キネマ旬報外国映画ベストテン第1位
三四郎

三四郎