大傑作。2025年ロカルノ映画祭コンペティション部門選出作品。イヴァナ・ムラデノヴィッチ(Ivana Mladenović)長編四作目。前作『Ivana the Terrible』は監督が帰郷した際に起こった実際の出来事を監督自身が再演していたが、脚色はあるにしてもかなりの暴走機関車っぷりに若干引きつつ面白く観た。6年ぶりの新作である本作品も全く同じ暴走機関車っぷりを遺憾なく発揮している。物語は大卒無職のステラ・ポポヴィッチを主人公としている。彼女は12歳の時に白黒テレビで見たユーゴの大スター歌手ボバンの虜になって以来、今になっても叔父の障碍年金を着服するなどして、ボバンのグッズやコンサートに人生の全てを注ぎ込んでいる(なんとボバンを演じるのは監督の父親である)。ブカレストに来たボバンに一目会おうと追い掛け回すも失敗し、生身のボバンに会うため暴走は加速していく中で、彼の愛人と噂される若き実業家/歌手のヴェラ・ポップと知り合う云々。映画は三部構成となっており、それぞれの章で中心的に語られる男が登場する。第一部に登場するチャーリーという自己中男は、自分の家を持てるくらいの金は持っているが、とにかく自己中で、女は家事育児と性欲処理くらいにしか思ってなさそう。第二部に登場するフェリックスは出版社の社長で、チャーリーよりも金を持っていて、表面上はチャーリーよりも紳士的だが、ヴェラに利用価値がなくなると即座に手を引く冷徹さがあり、資本主義の権化のような存在だ。第三部に登場するガビはお金はそこまで持っていないが穏やかな人物であり、前の二人に比べるとマシなのだが、ステラは彼がロマであることに抵抗を感じている。常に男が登場するのは、ルーマニアにおける女性の立ち位置にも密接に関係している。女性たちは常に性的な眼差しを向けられ、同時に貞淑さを求められる。セックスしろ、子供を産め、世の中と同じように生きろ、という男目線の猛毒言説に苦しめられている。そんな中で、独身で子供もいないステラは異端の存在であり、その異端さ故に資本主義に馴染めない様がダークなユーモアと共に描かれている。
映画は2007年にルーマニアがEUに加盟し、束の間の好景気に沸いていた2008年を起点に、その後すぐに好調だった経済が急激に減速していく時期を描いている。大卒の彼女にも紡績工場での仕事くらいしかないのも、一家全員が無職で、叔父の障碍年金で暮らしているのも珍しい状況ではなかったのだろう(英語で手紙書いたり会話したり結構なインテリのはず)。誰もが金を求めて喘いでいた時期だった。ステラがボバンに惚れたのは1986年の12歳のときで、それ以降ずっと彼を追っていたことを考えると、彼女がボバンへの幻想の中で過ごしてきた20年間はそのまま民主化による格差の拡大の時代を反映しているのだろう。その間に三度自殺未遂をしている、というエピソードも象徴的だ。そんな彼女の届かない"想い"が届いた瞬間というのが、"初めて彼に悪態をついたら本当に起こった"というのがなんとも悲しいが、実にSNSっぽい反応でもある。 題名の"Sorella di Clausura"は、普段は沈黙の誓いに従って口を開かないが、一年に一度だけ演奏会で歌う修道女たちを指しており、それは結局誰ともセックスすることなく、結果的に"禁欲的な"生活をしていたステラを指した言葉である。ヴェラからステラのことを聞いていたのか否かは定かではないが、なんとも皮肉な言葉だ。しかし、その言葉もまた、性的に消費されることを良しとせず、欲望の主体性を取り戻していった彼女の異端さを示しているだろう。