アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞ノミネート作品。『名もなき反逆者 ロシア 愛国教育の現場で』というタイトルで放送。欧米での光景とさほど違いが見当たらないロシア田舎町にある学校にて、政府の方針に従っている証拠となる愛国教育の映像提出が求められることになり、その困惑した現場の変遷を撮影し続けたもの。地獄とはここを指す。絶望という言葉がカバーする事象の多様さに気が滅入る。あまりにあまりのことの連続である。何度か目をそらした。国旗入場儀式で明らかにしらけきる低学年の生徒は他人事、あっという間に徴兵される生徒の顔はかたく諦めを感じる。そして自分は"子供が戦争を愛する教育"に荷担する。「国を愛するということは国旗を掲げることでも国歌を歌うことでもなく、"我々には問題がある"と言えること」撮影者の悲痛な叫びである。しかし極右教鞭にて「みんなと異なる意見は排除しろ、そうすれば分断は起きない、国を愛さないなら出てけ。この国に暮らしながら国を愛さないのは寄生虫と同じ」には悲しいかな親近感。『小学校 それは小さな社会』(英題:THE MAKING OF A JAPANESE)では撮影が2021年コロナ真っ只中であらゆる規律が追加され軍隊かよとレビューにもあったがどこか異世界空間みもあった。一方2022年にウクライナ侵攻が始まりロシアの学校では粛々と子供も戦争を進めていた現実があった。ワグネルまで教育に介入し、戦争につぎ込むための資源を製造する装置と化す学校。クリミア併合を"クリミアの春"と表現していたことにそれなりの衝撃を受けたが物は言いようである。部分的に見れば、"ただそうするようにしただけ"に映る些細な出来事も、連続で見れば恐怖映像となんら変わりはない。「人々が言いたいことを言える自由の国だったら僕はここにいられるのに」この言葉は重く受け取らねばならない。政府の方針に協力すれば恩恵は莫大であり、非協力は死に繋がる。この極端さが思考の隙間を決して許さない。そして人々はなぜか極端さが持つ強固な力に激しく引き寄せられるのだ。まるで自分が力を持ったかのように錯覚し、その自分に見合った多くを欲しがり、戦争を起こすのだ。このシステムのなかでは子供は『どうのように生きるか』という答えにも問いすらにもたどり着けないまま戦場に投入され象徴にされ未来の投資にされる。死後の世界を説き命をなげうつよう促すその光景は、かつて日本の宗教界が行っていた光景と同じである。 どうしてもレビューを残したくてfilmarksにこの作品情報を申請したのですが、数日で追加してもらったのはいいもののキャスト欄がとんでもないことになっている