だいすけ

パーフェクトブルーのだいすけのレビュー・感想・評価

パーフェクトブルー(1998年製作の映画)
4.5
サイコスリラーの手本みたいな作品。ホラーより怖い。

主人公の妄想オチ、あるいは精神分裂オチ、こういうミステリー映画でよくある展開を予想させておいて、華麗に裏切られた。だとすると作中の描写には現実と虚構が入り乱れていることになる。このあたりが精巧で、観客を困惑させるトリックになっている。伏線もそれと悟られない。まさに作中ドラマのタイトルが示す「ダブルバインド」の手法である。さらには、主人公が置かれた状況と心情においてもダブルバインドが発生している。

この映画は多様なテーマを扱っている。哲学的なテーマとしては「自分のアイデンティティ」について。私たちは普段、自分という存在を強く意識することはない。しかし何かのきっかけで意識が内に向くと、アイデンティティが揺らぐ。なかには自分の存在に不確かさを覚える人もいる。そんなときにどうするかというと、自分の外にあるものにアイデンティティを求めるようになる。この映画でいえば、犯人が自身と「理想のアイドル」を同一化した現象があてはまる。

そもそも「理想のアイドル」という表現はトートロジーみたいなもので、idolの語源は「偶像」である。崇拝の対象としての偶像。本作みたいに、ファンが理想のアイドル像を勝手に構築していく。そして、もはや生身の人間(実体)を置き去りに、偶像が独り歩きしていく。推し活とは一種の宗教であり、本来は純粋な宗教と同じように、人々に生きる張り合いを持たせてくれるものであるはずだ。しかし、ストーカー男のような「過激派」が現れることもある。

アイドルに限らず、人間はみな、本来の自分と、理想の自分(あるいは他人からみた偶像としての自分)のせめぎ合いのなかで生きているのではないか。それが現実と虚構の交錯である。で、難しいのは、「本来の自分」というのがよく分からないことだ。ちょうど、自分の全身は鏡越しにしか見ることができないように、果たして自分の実体が存在しているのか、それはどんなアイデンティティの持ち主なのか、分かりえない。だから、先にも述べたように、他人や地位や職業といった、自分の外側にある事象にアイデンティティを求めるのだと思う。

アイデンティティを探るプロセスは大いなる不安を伴う。一層のこと、他人から求められる役割(主人公にとってはアイドル)を演じていたほうが楽かもしれない。例えプロセスを経ても、自分の実体にたどり着くことは不可能(主人公がラストで車のバックミラー越しにしか宣言できなかったように)。それでも、このプロセスを経て腹落ちした人は、「これが自分だ」と信じて、胸を張って生きることができると思う。
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