タチあんちゃんはボクサー(俄)なので左が気になるとして、ゴダール公爵の右とは何ぞや?監督敬愛のジャック・タチが主演「左に気を付けろ」に倣って、公爵の命取りとなる右は如何に繰り出されるのか?
それにも増して、天下のゴダールさまをハクチ扱いするとは何者だろう。そのハクチに映画を請求するのはゴダールさまが映画作家と知っての事だろうが、以ってハクチの"罪"を「ゆるす」んだそうだ(!)
要は「免罪符」の交付である。そう持ち掛けるところからピンとくる、かのナニ様はまず悪魔であろう。悪魔氏も公の如何なる尻尾をつかんでいるのか?「赦す」のか「強請る」のか知らないがおもしろい展開だ。
歴史的、某教団腐敗の象徴「免罪符」を呉れるから映画で贖えとの通告が滑稽で、どこか今どき日本の詐欺電話のようだ。ハクチ相手になんの存念でもないかもしれないが、期間半日で公がどれほど頓馬な代物を寄こすか?天才の頓才たるか?観てのお楽しみという具合である。
ところで、ゴダールの漢字変換辞書には「白痴」という文字がない。もしやと思って「ごだーる」を変換したが「白痴」とならず、どこが漢字だい?「Godard」が出るからおもしろい。
で、話は免罪符欲しさに期間半日の映画撮りてんてこ舞いが"罪"のおかげで足を掬われるかなんかを綴るかと思えば、さにあらず。ハクチ公はそんなモンとっくに用意してあると言わんばかりの余裕綽々でタチあんちゃんの真似?まで披露して、"首都"まで届けりゃあこれで"罪"はチャラという、Ferrariごっこの特権階級的人生は優雅なもんだ。
しかし、『免罪を神以外から「贖う」事の邪さ』×『?右側』を気に掛けながら眺める頓珍漢映画は笑ったものか呆れたものか。もっとも、映画で免罪を贖うにはそもそも何を撮ればいいだろう?第一に思うのは、罪状の精査であろう。第二に悔い改め。第三に罪責を負う覚悟の表明だろうか。
そんなもんどこに映ってるんだ?と問うのが真っ当であるが、そんなものはどこにもないのである。だが、それが「無い」事がミソというべきだろう。
ハクチ公爵のゼロ回答は「免罪」に対する言葉を成さぬ侮蔑である。それとともに、公は幾つもの「死」のニュアンスをフィルムに刻む。死に関わり臨む様相も様々だが、誰もが死んで裁かれるつもりでいるはずなのだ、フランスなら。そして、終の景色として引き潮の入り日をガラス戸越しに映し出す。生きることの謳歌、日盛り人だかりの浜辺を背にした小娘がやがて入り日色の女にすり替わる時、その先に待つ死を予感しながら暮れなずんだ部屋の奥で誰かの人生が「生きて得る免罪」を笑うのを感じれば御の字である。
こうした事をケロリと描くのが公爵様のGodardたるところであるし、日々訪れる落日への潤色に琴線が鳴らされるのを感じる人が多いのもGodard界の住人ならではだろう。写真家のベアテ・ミューラーなんかがそうなってしまうのも、Godardがこうだからと言うしかあるまい。気になる人はタグチファインアートを日本橋本町に訪ねるべし。そんな事を余所に「気を付けるべき右」はどこかに未だ潜むのだろうか?と心配になった頃、突然、脈絡なく大隕石衝突の地殻捲り的にそれはやってくる。
"首都"即ち"Capital city"に降り立った公爵の右から人を押しのけて「刺客」が通り過ぎる芸のなさが、ありゃほんの切っ掛けでね、という感じである。だが、そのどさくさに放り出されたフィルム缶にはどうやら、別のタイトル「Une Place Sur La Terre(地上にひとつの場を)」が記されている。しかし、芸が細か過ぎて誰が気付くんだ?
そして、その場に現れた銀行家がそのフィルムを買収すると出し抜けに切り出し、他方で映画関係者一同の"Enclosure"を宣言する。このどさくさ重ねが順調な「免罪」への流れを壊して行き、話を簒奪、独占する。
金融資本に攫われた映画はサスペンスフルな「右側に気を付けろ」(それとて、公が用意済みのものである)、業界人だけが知る裏タイトル『気ィ付けたって無駄だがな』映画を「悪魔」野郎に横流ししやがって罰当たりGodardに「免罪」は無ェものとして放映されるんだが、監督がその後も映画を撮り続けるように、この映画も"FIN"では終わらない。つまり、この一巻の終わり、公の映画の放映開始を見送った先には「右側に」が再び始まるのである。これが人間界の常の道、資本主義的「再生」産である。そして、資本は常に拡大を要求する。
てっきり、第一案:邪な「免罪」なぞ神が回収して「Godard」も地獄にぶち込んでお終いか、第二案:さすがGodard、「悪魔」野郎を嗤ってやって白星!金星かな、と思いきや、「神」の代わりに事を仕切るのは資本家"Capitalist"であった。
さて、今と違いビデオ商品化が遅れ気味だった時代、公爵映画の本当のタイトル「Une Place Sur La Terre(地上にひとつの場を)」が、放映された映画「右側に気を付けろ」のタイトル画面のワンカットとして記されている事に気付く人がいただろうか。
地上に「ひとつの場」を得て生きられない、フランスはこの時すでに消費大国で世界企業の大市場、かつ、自らそんな企業をいくつも抱える世界分業体制の時代である。それを克服して慎ましく「ひとつの場」に安住を求めるなら、それは生きるのをやめて墓所に納まる以外にあるまい。
今の暮らしの在り方が、そうした結果どれほど罪深くなってしまったか、21世紀人は山ほど事実を突きつけられている。しかし、永年、他者に触手を伸ばして奪って豊かさを築き上げたフランスがどうして「寝て一畳」を容易に生きられよう。何が罪であれ解決は生きてじっくり取り組まねばならない。だから、どこかの教会かナニ様に「免罪」を贖うまでもなく、「神」が最後の相手なら、私はよくご存じのはずのヒトです、と裁きは死んでから寝て待てばよい。
「ひとつの場所」この言葉が「悪魔」氏を欺くGodardの真骨頂と言うべきだろうが、誰がそれに気が付くか?
事態はハクチ公爵を放り出して、映画を資本家の企業提供「右側」として流通させる。伝統的に右派が保守で資本家側とは知れたこと、実は気を付けるべき「右」とはここにいたのだ。
フラン札で生き埋めのハクチ公がどうなったか、「悪魔」野郎への追求で某テロ組織の関与が疑われたか誰も知らないが、放映された映画のタイトル扉から「右側に気を付けろ」を読み取る人は商業映画界に身を沈める監督の遺言としてこの言葉を噛み締めるべきなのかも知れない。
と、このように読み込みながら、そのうわべを怪しまずにいられない。それがゴダールの狸っぷりが臭すぎるからである。終わりを記さずに閉じる言葉で、「地上にひとつの場所を」このように描いている。
悪は存在していたか?
人の声は宇宙に織り込まれて答えなかった
夜明け前に答えなどないかのように
あるいは、期待しかないかのように
太陽という期待
正当なものは それ以外ないかのような期待
今過ちを自覚して彼らは黙している
沈黙が今 彼らに過ちを自覚させる
この沈黙を前に
人は声にならない恐怖の叫びを上げようとした
だが沈黙を見ようとするともはや見えなかった
夜が最後の力を集めて
光に打ち勝とうとしているからだ
だが光は背後から夜を襲うだろう
だが光は背後から夜を襲うだろう
まず初めに とても優しく
沈黙をいたわるように
人が昔 聞いたささやきが聞こえる
かくも遠く
人が生まれる はるか以前に
ささやきは始まっていたのか
こころを鎮めて過ちに向き合えればそのささやきもまた取り戻せるだろうか。
天上宇宙の高みから転落してやっと分かったかのような気付きがそのささやきの発見であるなら白痴な民はどうしよう。どうするまでもなく審判を総浚えすればリトマス紙のように悪のあるなしが分かるのだろう。悪が人を過ちに導くのか、過ちに沈黙するのが悪の印なのか、ならば人が悪そのものなのか、白痴であるヒトには分かるまいから、なるほど、考えるのは過分の事と割り切ればいいのだな。
しかし、そのためにもこれだけのステップを踏む必要がある事を監督は教えてくれる。そして、夜が夕映えを追っ払うころ、ハクチ公の射影は夜の沈黙をいたわり昔と同じようにささやく。実は過ちもなければ悪もない。すべてはゆるされる、と。いや待て、これだってウソ臭いだろう。だが、そう疑いながらこれを書き終えて半日ぐらいは清々しく空を見上げられそうな気がする。