レインウォッチャー

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

5.0
かつて、萩尾望都は『半神』という短編漫画を描いた。
所謂シャム双生児を扱った作品だ。外見は美しいが知性をもたず、故に「天使のように純粋」と誉めそやされる妹と、真逆に賢いが痩せ細った陰のような姉。やがて分離手術が施され、姉のほうが生き残る。

願い続けていたはずの妹との別れ。事実、栄養が行き渡った姉は見違えるように美しく成長する。しかし、彼女は鏡の中に去った妹の面影を見て、取り返しのつかない喪失感をおぼえ、涙と共に呟くのだ。
「愛よりももっと深く愛していたよ おまえを / 憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ おまえを」と。

分け難く一体だったものとの決定的な別離、《分断》…そしてそれに伴う、これもまた単純に二分できないほどに癒着し、時に人を縛る愛憎のイメージは、この映画『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』においても幾度となくリフレインされるテーマとなる。

だからこそ、ヘドウィグ(J・C・ミッチェル)は「I'm the new Berlin wall !!(私は新たなベルリンの壁だ)」と歌う(『Tear Me Down』)。
出身地、旧東ドイツにそびえるベルリンの壁。壁の向こうに「置いてきた」、男性としての自分。そして、一時は深い絆を結んだにも関わらず、ヘドウィグを拒絶したあげく楽曲を盗み、今やスターとなったトミー(M・ピット)。ヘドウィグはあらゆる《分断》、人々が目を背けたがる生々しい接合面の傷跡そのものであるように、誰も目を逸らすことのできない衣装・ウィッグ・化粧で武装してステージに立つ。

劇中でこれでもかと連打される名曲群(※1)の中で、やはり最も中心的な楽曲であり、上記のような主題にも直結しているキーが『Origin of Love』だろう。タイトルの通り『愛の起源』についての曲であり、詞は概ねこんな物語を語っている。

「かつて人間は2人で1人の生き物だった。男と女、男と男、女と女が、反対向きにくっついていた。
 しかし、やがて神の怒りを買って、皆が2つに引き裂かれてしまった。
 それからというもの、人間は誰もがかつての半身を探し続けている。これが《愛》の始まりなのだ」

このロマンティックで神話めいた物語(MV的に流れるアニメーションもウルトラキュート)の源泉は、古代ギリシアの哲学者プラトンが著した『饗宴』に遡る。そしてあらためて『饗宴』を読んでみると、この映画にもまた新たな角度から光が当てられるようなのだった。

哲学とかいうと堅苦しくきこえるかもしれないけれど、『饗宴』は敬遠不要。なぜなら、いわば「酔っぱらったオッサンたちのプレゼン大会」だからである。
飲みの場に集まった知識人たちが、《愛=エロス》の素晴らしさについて順繰りに語り出す…という、なんだか冷静に考えるとかなりイタい光景なのであるけれど、何にせよそのプレゼンの一つ一つが、人生の大きな目的の一つと考えられる《愛》をどのように捉えて追求すべきか…の考察となっている。トリには当然、プラトンの師匠である元祖論破王ことソクラテス大先生が控える構成だ(※2)。

上記の《愛の起源》は、プレゼンターの一人である喜劇作家アリストファネスが語った話の一部であり、彼は「全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそエロス(愛)」と締めくくる。欠けているものを埋めるために、身の寄りどころを探すことに《愛》を見るのだ、と。
ここまででも、ヘドウィグが『Origin of Love』に込めた心情にタッチできそうではある。しかし、実はこの部分の解釈だけでは片手落ちになる。『饗宴』は、プレゼンターが替わるごとに前の話者の話を少しずつ取り入れつつ、時には批判的に発展させていくからで、最終形態としてはやはりトリのソクラテスの話に目を向けてみたいところだ。

じゃあ肝心のソクラテスはといえば、アリストファネスの説をさらに延長させている側面もあり、こんなことを言っている。

「エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めているのだ」。

そして、この「永遠に自分のものにする」とはすなわち、「子を生むこと」であると続ける。
「死をまぬがれぬ人間にとって、生むという営みは、永遠と不死にあずかる手段だからだ」。

ここでいう《子》は、何も直接的・生物的な子孫だけではない。精神からの産物(アウトプット)、この当時でいう《徳》を後継者や世間に伝えることもまた《子》なのだ。そして、この追求を続けていくと、肉体・物理・性愛といった俗世的な美しさには惑わされなくなり、「美そのもの」への到達(プラトンのイデア論ですね)が目的となるのだ、と。

さて、ずいぶんな回り道をしてしまったけれど、漸くここらで映画に話を戻そう。
じゃあ、この映画…ヘドウィグにとっての《子》って何だろう?と還元したとすれば…わたしは、《音楽》に他ならないんじゃあないか?と思う。

ヘドウィグは、自分を裏切ったトミーを追いかけて盗作を認めさせようとする。もちろん、それは当然の権利といえる行動だし、ヘドウィグにとってトミーはまさに引き裂かれた半身、『半神』のように愛憎がぐちゃ混ぜになった対象であったことだろう。しかし、その「欠落を埋めるため」の行動は、結局のところヘドウィグを充たすことができない。そればかりか、家族であるはずのバンドメンバーを蔑ろにし、傷つけてしまったりもする。

そんな七転八倒の末、ヘドウィグが至るのは「はじめから自分は完全だった」という悟りにも近い境地だ。ラストを飾る曲『Midnight Radio』の歌詞は直接的にそのことを表現し、この曲を歌うヘドウィグはもはや派手な《武装》を必要としていない。タトゥーは1にして全なる姿へと生まれ変わる。

確かに、トミーがヘドウィグにした仕打ちは酷かった。しかし、ヘドウィグがその心の奥底で真に取り戻したかったのは、果たして「トミーからの愛」とか「楽曲の権利」といった俗世的な満足だったのだろうか。
失われた旧東ドイツ、失われた過去と性、失われたトミー。これらはもう戻らない。それでも、《音楽》は残る。ヘドウィグが失い続けてきたそれら、《半身》は、どれもが深い傷・痛みと共にある。一方で、その傷が創作へと繋がり、『Origin of Love』という《子》を為したこともまたひとつの事実なのだ。そして、たとえ誰に歌われようとも、まことの音楽の本質は「美そのもの」に属して動くことがなく、所有することはできない…ヘドウィグは、そのことに気付いたのだと思う。これはある種の《解脱》だ。

そんなヘドウィグの変遷を補強する存在が、バンドメンバーの一人であるイツハク(M・ショア)だろう。ヘドウィグの現夫とも名乗る彼、バンダナにヒゲといういかにも「男らしい」ルックスなのだけれど、一方でほぼ女性音域でのコーラスを担当していたりもして、序盤から明らかに目を引く存在だ。
やがてヘドウィグについていけなくなった彼は、ミュージカル『RENT』にこっそり応募し、エンジェル役を獲得する。ここで、彼もまたセクシュアリティの曖昧さを抱えた存在なのだということを確信した。なにせ、『RENT』のエンジェルといえばドラァグクイーンだからだ。

そして、エンジェルは名前の通り他の登場人物たちにピュアな愛情を振りまく存在でもある。そんなエンジェルと重なるように、イツハクは献身的にヘドウィグを支えようとする。ヘドウィグがやけに彼に辛く当たるのは、甘えと同時に同族嫌悪的な側面もあったのかもしれないし、どこか共依存的でもある。
いずれにせよ、ヘドウィグのイツハクに対する扱いは、かつてトミーからヘドウィグ自身が受けた仕打ちと変わらないといえる。これは虐待のループなどを想起させ、観ていて苦しくなるポイントでもあるけれど、最終的にはイツハクもまたヘドウィグとの共依存的な関係を断ち切る。依存=執着であり、「相手ありきの1」の状態から、「自分だけで完全な1」の状態へと《解脱》するのだ。(※3)

こう考えていくと、映画の結論は孤高でドライに映るかもしれない。しかし決して厳しいばかりではなく、依存的・執着的な愛は真の愛とはいえず、ボロボロでツギハギだらけであろうと、このイビツな形の自分が《1》であると認めて初めて、真に他者を慈しみ愛することが出来る…と言っているのだと、少なくともわたしは受け取ってみている。

『RENT』の代表曲といえば『Seasons of Love』がある。
過ぎ行く人生の時間を何で数えるべきだろう?と問い、涙や不幸、あるいは死で数えることも出来るけれど、「愛で数えよう」と歌う楽曲だ。ヘドウィグもまた、「愛で数える」ことを強い心で決めたのではないだろうか。

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※1:グラムロックを基本マナーにしつつ、パンクからカントリーまでバリエーションもカラフル。どれも甲乙つけ難いけれど、中でもわたしはポール・マッカートニー風のポップセンスが楽しい『Wig in a Box』が大好き。

※2:厳密には、そのあと乱入してきたアルキビアデスのターンがあるのだけれど、これはソクラテスの権威を強調するような、いわばボーナストラック。プラトンの意志が窺える。
因みに、この時代の哲人の愛とは少年愛・男性の同性愛こそ至高(裏返しとして女性蔑視は前提になってる)、というバイアスがかかりまくっているので、その辺は調整して読む必要はある。

※3:『RENT』のエンジェルは、HIVで命を落とす人物でもあることを踏まえると、イツハクの救済はエンジェルへの鎮魂にもなっているのかも。