チュン太theRelax

いまを生きるのチュン太theRelaxのレビュー・感想・評価

いまを生きる(1989年製作の映画)
5.0
ニールを自死に追いやったものってなんなんだろう?息子をコントロールしたい父か。人生の秘儀に目覚めさせたキーティングか。

思えば美しいものに触れるってことは人生においては危険なことであったはずなのに、私なんかはそういうことを忘れがちだ。美しいものに触れるのが危険なのは、草花を鑑賞してキレイねーというのが危険なのでは全くない。そんなことではない。ひとたび美に感染してしまったら、ただの草花だったアレが今、こんなにも美しく感じられる!というのが美の効果であろう。てか美とはじゃあ、何?これは大変な難問であって私ごときがカジュアルに答えるような問いではありえない。が、少なくともこの映画の中で美に目覚めた高校生たちは、人生の秘儀に感づいてしまうわけで、人生の秘儀とはつまり、美的な部分のことだ。人生は生きるに値すると人間を鼓舞する風のようなもの。生きること、思いを告げること、詩の数行を仲間と味わうこと、大いに怒ること、深く恋すること…詩に詠まれてきた全てのこと、今は死んだ詩人たちの輝ける人生の精華、蜜のように溢れ出た詩の数々を味わい感情と思考の波頭を摘んで歩き、なによりも、劇中に紹介されるホイットマンの詩の中の言葉、自らも詩を寄せること、おそらくそれが人生の秘儀、少なくともこの映画の中で。
キーティングは寝た子を起こしたような形になっているが、正確には青年たちの中にすでに備わっていた詩性に触れて回ったというような言い方が近かろう。実は喜びにせよ悲しみにせよ旅路の果てに探し当てるものではなく、すでに我々の目の前にあるわけで、それを見るのか見ないのかしか無い。あらゆる政治的文言は感情的な震えを分類して箱に入れてしまう。なにがしかの感情的な叫びを小綺麗に裁断して見栄えを良くしてしまう。こういったことは我々の心から奔出するあらゆるタイプの無意味を反・美的な有用性に変えたがるものだが、高潔さはそれを決して許しはしないのである。

つか、私はどっちかというとキーティング先生を支持したい。教員として、ニールを自死させた責任はね、たぶんある。しかしながら、ニールはキーティングを呪わない。この場合、美しくないものたちがニールを圧殺した。ニールはやり遂げた勝者であった。彼の信ずる美の中において。彼は自分の信ずる美の中においてしか生きないし、その外でも死なない。
というかこの場合、ニールが死んだか生きたかが問題というより、死んだニールの死をも愛すかが問題だ。ニールは彼なりの詩をものした。真夏の夜の夢、パックを演じ切ったことがそう。そうして、そのまま自分の詩の中に死んだのだ。

とはいえね、芸術家の、死に至るようなロマンティシズムに関しては精査が必要と思ってるよ。マジで。
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