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怪異談 生きてゐる小平次のニューランドのレビュー・感想・評価

怪異談 生きてゐる小平次(1982年製作の映画)
3.8
当然、公開当時の新作邦画年間ベストテンに入れた。歌舞伎の演目みたいで近代以降の作らしいが、一回目の映画化もかなり高名で、青柳監督の語り口も巧みな秀作(単なる話の弾み方なら、流石に脂の乗り切った頃の名匠作の方が上かも)だったが、こちらは予算や構えなどの制限、俳優チョイスも思い通りだったか、そして作者の健康的状態は、など充分とどれだけかけ離れてたか、知る由もないが(調べれば、或いは思い出せば、分かることだがどうでもいい)、ロケの自然やセットの美術の力のでき得る丁寧さ最良をもってしても、ほぼ固定カットだけ、俯瞰めの多用、川流接写や一回だが反転ネガ図の突発迫力入れ、幻影か現実か判別つかないカットたち、のタッチ·テンポは真のキレに届かず、モタモタめである。敢えて決定的確認が出来るような描写は流し、曖昧にしてるせいとも云える。しかし圧倒的な、生死をすら超えた人間の覚悟·思いの力をどこからか感じ続けてる自分に気づく。江戸から旅路での、1人の女を巡る親友ふたり(役者と太鼓打ち兼作家)の対抗·対立を押し隠し噴出も招く心の遍歴·危うさ。端から妻帯者に対しけりはついてるような事を、自分や周囲の破滅を望むかのように持ち出し、一方も起きた事に過剰に引け目·罪を感じる、2人は劇作の覚悟の踏まえ方を巡るようにもつれ·互いを追い詰める。その原因たる女は彼らの演目探りに参加するけれど、男たちが自らを死に至るまで鍛える、鏡·或いは創作モチーフである。とはいえ、生身の人間の1回に留まらない「死に損ない」が、事態を半端も艶かしく引き伸ばしてゆく。しかし、根っこの覚悟を秘めた顔·表情のこれ以上·奥にやらぬ表出は見事な決意か固まっている。更にそれらに立ち会う女自身の側に、より深い闇と諦観の底の強さも窺われてくる。
数年後の誰もが絶賛した遺作にして名作、ヒューストンの『ザ·デッド』を上回り(更に確か16ミリ撮りだった気がするが、ブローアップ技術が増したのか、私が以前観た名画座の設備の問題か、昔よりやや綺麗に見えた)、単純に作品としても、昨年の、キネ旬邦洋ベストワンに肩を並べる気がする。戦前からの名匠は怪談もののスペシャリストに留まらず、正に映画の申し子、映画そのものの醍醐味·愛おしさ·格式と一体化した作風で、『虞美人草』『続雷電』『~四谷怪談』『地獄』といった大向うをはった世紀の大傑作らの傍ら、『エノケンのとび助冒険旅行』『思春の泉』『青ヶ島の子供たち』『母ちゃん』といった思いがけない珠玉の掌編も忘れ難いが、本作もそういった1本であり、同時に作家歴ラストで、内なる深奥の創作の核の鬼をスッと見せてくれた。遥かに若い役者を相手に意識させずに、自分を写し出すよう使いこなし、見事な幕ひきである。
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