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勝利と敗北のotomisanのレビュー・感想・評価

勝利と敗北(1960年製作の映画)
4.0
 「俺がこんな会長の所にいたら今頃 . . .」とやくざ者に身を落としつつある元郷田ジムのボクサー岡野が迫った「こんな会長」は峰岸(山村聰)。それなら、「あんな会長」の郷田(安部徹)はやくざ上がり、表はリングでフェアプレーだがリング裏ではアンフェアと術数を巡らす冷酷漢だ。だから、ボクシングもただの金を生らす木の勝負事、「堅気のふりを晒しやがる」とばかり峰岸のフェアネスはさっぱり通用しない。
 しかし、怪我で郷田ジムの花形から転落した岡野にはよくわかる。昨日の敵で今や仇というべき旗(本郷)の日本チャンピオン戦出場決定まえ、昨日までの生意気盛りな向こう見ずに向かって、「旗、この会長の下にいながら何故判らねえか」と毒づきたいのだ。
 だが、それを言い澱むのも、かつて郷田ジムでの旗との模擬戦で怪我したことの意趣返しに、チャンピオン戦出場が決まりやっと分別が芽吹いた旗が私闘を避けるべく懇請し、さらに二人に割って入った峰岸からの説得とその堅気な男の度量に打たれ、たった今、それと、「俺もまたヤツと同じことで . . .」と気づいたからだろう。

 ボクシング映画だが明日がどっちか求めあぐねるような話ではない。明日なんか勝手にくるが自分は自分だとみんな思っている。そんな中で、旗も対戦相手の山中も、峰岸も何を失おうとも構わない。そんな連中を郷田は、「こいつはバカなのか」と受け取るかもしれない。
 同門の山中と旗、有力視される旗をあえてライバルで昔気質な侠客のような近藤のジムに預け、その旗と自分(郷田)との義理に手切れ金まで払って、更にはその金策のせいで新珠とも別れてしまうような峰岸はバカである。そして、こんな親父にほだされる旗も山中もやはりバカなんだろう。

 チャンピオンとなった旗と手を切るのも郷田にとっては、本気で、ボクシングで峰岸に勝つための禊に過ぎない。しかし、この土俵で勝ちたいのは、峰岸に感じ、やくざな自分に欠けた何かを勝ち取るためであり、それには敵、峰岸を知り、この闘場を知らねばならない。そのためにはバカを相手の不利な長い戦いを自分に強いることも必要なのだ。

 この映画に感じる愛着はこうした登場人物たちの身の始末への共感に基づいている。
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