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悲愁物語のotomisanのレビュー・感想・評価

悲愁物語(1977年製作の映画)
4.0
 主役の桜庭が血の汗をゴルフに注ぎ込み悩み多くハングリーな女子プロ王者に栄進するというのなら梶原原作で通るんだろう。ところが、企業のイメージキャラクターに抜擢されて人気者、その人気にあやかろうという有象無象に付きまとわれ、つつき回されし始めてゴルフそっちのけのエライことに。そんな話をブランク10年、自身が社会問題的である鈴木淸順が手掛けて毒気いっぱい、どこかくすぐりだらけに仕上げたとなると、これには制作者筆頭、梶原も「原案」にとどめておいてくれと言いたくなるだろう。

 のし上がるネタは自前でも、植え付ける場所も水やりも他人持ち。代償はナマの我が身なんてのもよく聞くことだ。そうして人気が上がるほどに弱い腹背を晒すはめにもなって。で、思わぬ要撃を思わぬ相手から食らい敵の言いなり、なんて事も。
 その敵が妬ましいほど、スポンサー、サポーター以上に獲物を「好いて」注視しているとなりゃあどう始末しよう?そう殺されでもしない限り. . .

 寄生虫によっては宿主と穏便になあなあの関係を長く続けてもいけるが、もとより常人離れした江波杏子がそんなわけがない。宿主をつつき回すどころかこちらに御座いとさらし者にまでして捕食者に宿主を捧げて寄生先を更新し生活環のステップを進めてゆく。
 虫ならともかく寄生者江波の加世のステップアップは、I. 桜庭同伴のTV生出演で全国に売り込み、Ⅱ. ご近所奥様連中を動員引率して桜庭邸を貪る会を開催、Ⅲ. 桜庭本人をいただく我が亭主に同伴する。と、スケールダウンすると共に桜庭本人に対し、より侵襲的で敵対性を深めてゆく。同時に事の失敗あるいは空振りを通して、人気者の地位を簒奪するどころか加世自身が周囲から一層阻害されてもゆく。このことを加世自身がヒシと感じていて、更にこの先のステップがもうない事とあわせて、桜庭汚辱が加世自身の凋落であるとも展望しているのだ。

 幸せは歩いてこないから、率先、当たり屋を演じてまで喰いついた桜庭をついに食いつぶす江波の加世。その終末を画するのが桜庭の中坊の弟というのが淸順監督の厭味だろう。人気者に祭り上げることの引き換えに「関係」を求めるなら、加世以上に巧妙で堅実、あるいは悪辣な者がビジネスサイドには揃っているが、こちらは男の間では当たり前すぎて話にもならない。
 一介の主婦がテレビショーのバックに群れて並ぶこの時代、ひとりライトを浴びたい江波の加世が全国区出馬して失敗、地方区あるいは地元でも食い潰され飽きられ無視され失敗、最後は引退条件の様に、亭主に桜庭を呉れてやって自分は「かばん持ち」の体たらく。これを笑わずになにをしよう?
 しかし、笑う間もなく子供が出てきて全てを台無しにする。その子供だって大人顔負けで、ただ、初めての「女」である姉を始まりはゴルフに、やがて雑誌屋原田やコーチに、次いでテレビをはじめとするマスコミに、そして恐らく繋ぎ屋岡田、社長仲谷にも、ついに赤の他人の小池にまで蹂躙されてしまうのだ。世間とはいったい女郎屋なのか?そのような屈辱を横目にその金で生き、同じような大人と交わるために成長するのか?
 弟的答えはいやだ、であるし、そんな自分も嫌なのである。そんな弟を姉はうれしく思っただろう。何のために血の汗流してきたかことは実に単純であったはずだ。その初心を突き返され目が覚める思いで死ねることにきっと感謝の念を、弟がこんなに成長したのかと感動さえ覚えたろう。この最後はやはり清順だなあ。
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