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地の塩のニューランドのレビュー・感想・評価

地の塩(1953年製作の映画)
3.8
☑️『地の塩』及び『戦火の大地』『諜報員』▶️▶️
近頃、閉塞の時代を切り開くべく、より広い観点と強い興味から『資本論』が多くの人に読み直されてるそうだが、その距離の取り方を示唆する、3本の米orソの旧作を短い期間に観る。
『地の塩』。この著名な作を何度か観る機会がありながらやり過ごして来た。日本での初一般公開は’77年か、信頼してる知人がその年に年間ベストテンにもしっかり入れていたが、観ずじまいにきた。
予想以上の素晴らしさ。赤狩りをものともしない楽天性(製作はともかく、当時の保守的なアメリカで上映·公開はどうなったのだろう、と心配せざるを得ない徹底ぶり)。ガチガチのフォルムではない、群衆の揉み合いで高さのズレた寄りの者の入れ等ロシア的モンタージュも入るも、補助的で、一般的というかレベル高めの当時メキシコ映画スタイル(あるいはメキシコ人もスタッフに積極起用した’40年代フォード味)で、「戦い続けるが、勝たねば。我々は前より強くなってる」というメイン夫婦の離れた所での個人の内の苦悶呼応·対応、下方での繋がり·結び付きのベース等、性的なものはないけれどなど、’77当時観てれば、『アタラント号』を想起させる教条性は後に退いた人間主義、バックグラウンドには’50年代の山本薩夫の傑作群を、今より敏感に想起したろうから友人と揃ってベストテンに入れたろうと思う。俯瞰め退きの入れ、それらと寄りの対応角度、を始めカット組みは万全ではないが、ショットは白黒コントラスト·自然引き込み·締まって力強い構図と一級で、酒場のカウンターのしょげた男たちの斜め縦捉え、先に云った群衆と治安保安官らの揉み合いの寄り·退き·高さ変えての詰めたカット積み、ラストのそれまでの1亜鉛鉱山住民内から次々駆けつけ増えるが止まらない他場所労働者ら参入、らは特に圧巻の図ら。カメラワークは少なめも、全てが堂に入った懐ろ·風格·的確さを表している。しかも個性的な民族性も様々なキャストの半ば以上が現地?の素人らとは。フォードの『怒りの葡萄』やヴィスコンティ『揺れる大地』も、想起させる雰囲気、あまりの楽観性が印象的で、『カムイ伝(第一部)』の前半の正助=ナナ=権らすら一体的に連想させられる。映画表現の一体性·統一力には、甘いものがあるかもしれない、しかし、映画はかたちに留まらないものだ。その肌触りの艶と弾力、内なる品位だ。
メキシコ人の土地が、米国ニュー·メキシコ州となり、持っていた土地はアメリカの企業のものとなり、虐げられた労働者として、白人労働者との差別(賃金、安全~発破時もチームを組めず1人作業で事故頻発~、健康面~与えられた宿舎の給湯·ベッドも不充分~)とその分断政策に苦しめられ·利用され、働かざるを得ない亜鉛鉱山のメキシコ人坑夫及びその家族(その内にも、要求の優先順も、表に立つ行動の主体も、男女差別がまた厳としてある)。その中の1人の出産祝い間近の主婦をナレーションの語り手として、その自己と周囲への改革·目覚めと行動を中心に進む。
ストに入り、男たちの抗議行動が逮捕の対象になると、女たちが組合に婦人部を作らす形で男らに変わってピケを続け、取締る側も法と慣例の外で弱腰。家事に回った男らもその環境の劣悪を実感。夫が組合の先頭で、控えめ従いめだった妻も目覚め、次第に中心的位置に、主人公らを中心に夫婦の間も対等に、男女共に広く世界への意識も成長してく。ピンチも、宿舎内の物の持ち出しの線をピケ破りと決め·反撃に転じ、他地区の労働者も駆けつけ、勝利へ。オルグの存在·指導も、台詞内に出てくる。本当に(アメリカ映画は、基本保守的な線·締め付けの中、政治的·商業的レベルをクリアして、)よく作り、突き抜けきったものだ。
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以前『虹』というタイトルで観た気もする、名匠ドンスコイの『戦火~』は、よくぞこんなものを、あの時代に造り得た(いや、あらゆる国の施政者は歓迎した筈だ)と、先の作品と逆の意味で感心させる。柔らかいグレーの巾ある層が美しく·セットとロケ撮影を一体的に囲い込み、冬の雲と煙と雪地の自然·1日の陽光変移·影の包む部分を統一的に纏め、やはり一般的なハリウッド映画よりは美学的に高度で、スムースな視線·窺い·対応·動きに見えて、それらがやや乱反射するも、迂回して巧妙に結び付いてく、まろやかで確かなスタイル。細かめ移動も悪くなはいが、見せしめに下着で歩かされる妊婦·ラスト立ち上がり駆け迫る農婦群らの顔のアップの縦フォローがかなりの力感·臨場感を示す。
しかし、そら恐ろしいのは、まだ、迷い自己を疑い·時流に諦める、占領下のドイツ軍に身を預け卑屈に近しくなる者らや、当のドイツ軍のイージーな残虐さはあることとして理解の内にあるが、徹底して毅然と非協力姿勢を示す農婦·女教師、そして妙にカッコいいパルチザン(レジスタンス)らの、人間性を欠いた仮面の様な顔と、自分等以外は裏切り者·非道侵略者として、血が繋がっていようが紅衛兵ごとく、平気·非情に相手の肉体·精神を破壊し尽くす、それが模範として無条件に称えられてるあり方だろう。最初、獣を越えた暴力と破壊で溜飲を下げて·押っ取り刀でストップかける理性があるように見せての。
「人民の悲しみ·苦しみからの怒りで、呪われた者らを、家族にも認められない位に貶める」と立ち上がるのだか、この架空の「人民」など怪物でしかなく、政権が理想像として強制したものだ。どこのエリアの話かと思ったが、紹介文にはウクライナと書かれている。そうなら、彼らにとってらより憎むべきロシア人を、編中では自分のことと名乗らされている。恐るべし、ロシア支配圏共産主義下の文化(ま、ウクライナの地のロシア人の村なのかも知れないが。または、ひん曲がった共産主義下の人間はこうなると反共を潜ませたのか。当初はドイツ軍をロシア支配からの解放軍と見る面があったのも史実らしく、やがて独軍とソ軍の両方がウクライナの敵となり、多大な死者を生んでゆく)。
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『諜報員』。それに対し、バルネットは敢えて人間性への言及を俎上から除く。マリオットのようなキビキビした行動性がある。主体性を奪われ、否応ない国家政策に従ったプロパガンダ映画もある。『諜報員』は文字通り独ソ線における、ナチスドイツの中枢に潜入、その経済·政治を揺さぶりながら、重要な機密事項(にかわる重要人物)を盗み、持ちだしてゆく、勇気と使命に同化した作品で、始めと括りを一般世界の恋人との別れと帰還で挟んでる中身は、無駄がなく、個性的なスタイルの厳しさ、直截さに、圧倒され、贅肉のない清々しさに、中身をさておいて、場と時と状況によって、我が身を偽り周りに併せて変容を続け(ざるを得ない)る、主人公に限らぬ群像のあり方に我が身の事の様に、身が引き締まる。特にラストの(早回しや短絡カット)のスピード·一気壮挙成し遂げは息をのむ。見事な映画·表現ぶりにKOされる『諜報員』は、日本初公開時、折からのバルネット·ブームでこれもついでに、という感じで観たが、『国境~』『帽子~』等の愛着が自然生まれるような作品に比べるとストイックさだけが残って、思い出したり語り合ったりも少なかった作品だ。自明のことなのか、それを語る事な意味はないのか、有能で臨機応変の主人公は、様々な敵にあたる人間らを操り·出し抜き、敵社会を蹂躙してゆくが、行動原理の背景·大義、敵の破壊されて当然の非人間性、は努めて語られない。安心して傍観·声援出来る場が与えられる事なく、世界の非情·不条理の波だけをもろに受け続ける事となる。寧ろ、ロシアとドイツの間でどっち付かずで不安定なウクライナの実情が生々しく捉えられてる。
ドイツのスパイが助命目的で漏らした情報で、ドイツ総司令部内の警備部隊、そのメンバーの父が有力穀物商人の所から、協力商人として激戦·混乱のウクライナ地区入り込む主人公諜報員。味方の潜入窓口と結び付いて、パルチザン内のドイツ側とロシア側スパイを逆に、ドイツ軍中枢に伝える。最重要の敵進行作戦図の金庫からの奪取から、訪問中の大将軍自体をモスクワ迄さらってく。鮮やか。
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