その涙に意味を求めてはいけない。そこからは(説明)しか導き出せないのだから。
ツァイ・ミンリャン『愛情萬歳』
1995年の夏、大阪梅田を歩いていたら目に飛び込んできた一枚の映画ポスターで一瞬で呑みこまれました。
連れ込みというよりは、まるで駆け落ちのようなヤン・クイメイとチェン・チャオロン。
ふたりの逢引の場所は高級マンションの一室であるにも関わらず、何故か反り返った隙間だらけの板壁で出来上がったような寒々とした印象をベッドルームに与えています。
そんな空間に隙間風がのべつ吹き込んでくるのは当然の事。
その風がツァイ・ミンリャンのヒロイン(!)リー・カンションであるのは言うまでもありません。
この存在感がまた素晴らしい。
ベッドの下に潜り込んだこの風は果たして軋む上の二人の間に入り込もうとしているのか。
それとも得体の知れない、この絆にヒビを入れようとしているのか。
観ている私たちはお定まりの破局を予見します。
ですが日常を描きながら、日常にはなり得ない展開を続けざまに観せられ、次第に(意味)の詮索や解釈への此方の思いが、画面の力にことごとく跳ね返されている事に否が応にも気づかされます。
なかなか思うに任せる事が出来ないとはこの事。
ほぼ劇中人物は三人のみ。殆どセリフもなく、音楽も付されてないこの映画。
私たちがいくらムキになって、うら寂しく問いかけたところで、この三人の苦い苦い歓楽に酔う声に吸い取られるや否や、全ては(無音のさえずり)とも言うべきものに変えられてしまうような不思議な余韻。
そして至ります。
造成中の公園ベンチでひとり泣くヤン・クイメイの涙の意味などいくら詮索したところで説明にしかならない、という事を。
同時期に公開されたツァイ・ミンリャンとリー・カンションの同時デビュー作『青春神話』にそのまま駆け込んだのは言うまでもありません。