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自転車泥棒のEyesworthのレビュー・感想・評価

自転車泥棒(1948年製作の映画)
4.5
【生きるための罪は罰せられるか】

第二次世界大戦後の1948年のイタリアで作られた、ヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアリズモ映画の代表作。

〈あらすじ〉
失業中のアントニオは、ようやく映画のポスター貼りの仕事をもらった。そのためにどうしても必要な自転車を請け出すためシーツを質に入れた。息子ブルーノを自転車に乗せ、早速仕事に取り掛かるが、ふと目を離した隙に若者に自転車を盗まれてしまう。急いで追跡するが、後の祭り。自転車が無ければ仕事ができずまた家族を窮地に追い込んでしまうため、アントニオは必死で自転車泥棒を探し出す。ローマの朝早く、2人は古自転車の市場に行った。ここで泥棒らしき男に会うが、証拠がない。その男と話していた乞食の跡をつけるが、乞食も逃げ出す。偶然泥棒を発見したが、かえってグルの仲間にやられそうになる。ブルーノの機転で警官が来るが、肝心の自転車はない。やけになったアントニオはとうとう競技場の外にあった自転車を盗んでしまうが、たちまち捕ってしまう。子供の涙の嘆願に許されるが、アントニオは恥かしさに泣き、そんな父の手をブルーノは黙ってとって、タ暮のローマの道に姿を消すのだった。

〈所感〉
「ネオレアリズモ Neorealismo」とは、1940年代から1950年代末にかけてイタリア文学・映画において支配的であった潮流、傾向を示すことばである。レジスタンス=解放戦争によってファシズムを倒し、君主制を廃止して共和国として生まれ変わったイタリアの「新しい現実」の芸術的表現がネオレアリズモであった。そんな当時の世相が反映されたような映画だが、キャストには演技経験の無い市井の人々を起用したというのが驚きだ。主人公アントニオを演じたランベルト・マジョラーニも普段は工場で働く一市民に過ぎなかった。その甲斐あって戦後の市民の激動と悲哀を色濃く映像に残したフィルムだと印象づけられる。彼らにとっては自転車一つとっても仕事の有無、ひいては生命をも左右するライフラインであったのだろう。だからこそ戦後の貧しい社会ではモラルハザードが起こり、ホッブズ的な自然状態に近づき、人々は少ない資源を奪い合い、争い合ってしまう。みんな家族を守るため、生きるために必死なのだ。
人が悪へと踏み出す時に、既に他人から悪を受けたため同じことを他人にしてもよい、と自己を正当化するのは誰もが行う防衛手段だが、それを善の道に引き留めるのが家族の大きな役割だろう。彼にとってはそれがまだ幼いブルーノという息子であり、逮捕されればますます残された家族は路頭に迷ってしまう。再び善の道に引き戻された彼は現状に感謝し、また仕事を探し始め、これからは貧しく困難でも、清貧に家族のために毎日生きていくことだろう。
とても昔の作品だが、我が国と同じ敗戦国イタリアの社会を知る意味でとても意義深く、家族愛にも触れられる情緒豊かな一作だった。
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