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狂へる悪魔/狂える悪魔のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

狂へる悪魔/狂える悪魔(1920年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

医学博士のジキルは、慈善家として貧しい人々を診察する一方で、実験室で研究に没頭していた。婚約者のミリセントの父、カルー卿は、夕食の席で「人間は二つの面を持ち、衝動から逃れられない。」と語る。ジキル博士はその言葉を受け止め、人間の二つの面を分裂させる新薬の研究に打ち込み、ついに完成させるが…。

「狂える悪魔」というインパクトの強い題名に惹かれて鑑賞したが、その内容はかの有名な「ジキル博士とハイド氏」であった。
だが、100年以上前の映画であるにも関わらず面白いと感じる。
調べてみると映画化の元祖的存在。
やはり、原点のいうものはその後に対する多大な影響与えたのだと分かる。
今もってホラーの佳作である。

物語を簡単に言えば、ジキル博士が人間の善と悪の部分を分離する薬を開発し、服用した彼はハイドという恐ろしい悪魔に変わってしまう話。
ハイド氏は、ジキル博士が理性で抑え込んでいた動物的欲望(ある種の本能)が表面化した姿であり、金、女、暴力と悪行を尽くす。
変身願望の物語や悪魔憑き、多重人格のサイコスリラーの元祖に思えるのだ。

本作は加えてサイレント時代の名優の名演技が楽しめる。
サイレント映画は、ある程度、字幕でセリフは語られるが、大部分は役者のアクションによって観客は物語や人物の心情を想像しなくてはならない。
主役の「ジキル博士とハイド氏」を演じるジョン・バリモアは、女優ドリュー・バリモアの祖父。
特殊メイクもCGも無いこの時代に、美男子が突如髪を振り乱し、顔を引き攣らせ、なりふり構わぬ鬼気迫る形相で、全くの別人に変身する怪演を見せてくれる。
当時の観客は、さぞ驚いたことだろう。

ジキル博士の時は優雅な動きと物憂げな表情、ハイド氏の時は底意地の悪い嘲るような笑いを絶やさず、常に何かを掴みかかるように指に力を入れている。
声やセリフが無くとも伝わってくる繊細なアクションによる演じ分けが素晴らしい。
とても同一人物とは思えない。

ジキル博士は二重生活を始め、ハイドはみすぼらしいアパートに住み、ダンスホールで声をかけた女性と同棲を始め、酒場や阿片窟といった、欲望を満たす所へ足繁く通い続ける。
それらは禁欲的なジキル博士の密かな欲望だったのだろう。
ジキル博士に戻っても、彼の中のハイドは強くなる一方で、変身の度に邪悪さも増していく。

ミリセントはジキル博士が現れなくなったことが心配になり、父のカルー卿が様子を見に訪ねるが、ジキルはいつも不在。
ジキル博士がハイドになる頻度が多くなっていくのは、理性が欲望に、善が悪に負けそうな前兆だ。

カルー卿は道でハイドに出くわし、子どもを踏みつける姿を目撃。
ハイドを捕まえて償わせようとすると、彼が出した小切手は署名がジキル博士のもの。
カルー卿はなぜジキル博士がハイドと付き合っているのか?と気になり始める。

ようやくカルー卿がジキル博士と対面すると、不在を責められたジキル博士は「こうなったのは(善悪を分離する薬品開発のキッカケは)元はと言えば貴方のせいだ」と怒り出す。
完全に八つ当たりである。

カルー卿はミリセントとの婚約を破棄すると宣言。
怒ったジキル博士は、薬の力なしでハイドに変身し、カルー卿を撲殺する。
怒りという引き金で、簡単に理性が吹き飛ぶ瞬間である。

抑えきれぬ怒りが犯罪を生むのは、昔も今も変わりが無い(人間に進歩が無い)のが悲しい。

父の死にミリセントは深く悲しみ、ジキル博士も罪悪感に苛まれ、ハイドになることを恐れて実験室に閉じこもる。
そしてミリセントがジキル博士に会いに来た時、今度は彼女に会いたい愛欲という引き金でハイドに変身。
彼女を乱暴に抱きしめると、突如ハイドが痙攣を起こし、死んでしまう。
そして、ハイドの姿はジキル博士へと戻っていく…。
理性が欲望を必死で止めようとした結果、生命をも奪ってしまったのである。
ジキル博士の心と身体はもう限界だったのだ。

原作には無いジキル博士の婚約者の存在があったことで、悲恋物語の要素が際立つ。
ジキル博士にとって、新薬は人間から悪を排出するための世のため人のための善意の発明だった。
ジキル博士は結婚を前に、世の中の役に立つ大きな成果が欲しかったのだろうと推測する。

科学の力に対する人間の過信、悪の欲望に負けてしまいそうになる人間の弱さ。
古い映画だからこそ、その行動(アクション)から主人公ジキル博士の葛藤を読み取る余白がある。

100年も前の映画だが、普遍的なテーマと役者の名演に、原点の魅力を感じる作品である。
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