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トラスト・ミーのotomisanのレビュー・感想・評価

トラスト・ミー(1990年製作の映画)
4.0
 ネッド・ライフルもヘンリー・フールも架空の人物と思ったら、「トラスト」の世界に生きていた。マシューはネッドの「人と宇宙」に育まれ、マリアもまたネッドを糸口にマシューの理解に踏み込もうとしている。蓮っ葉娘も眼鏡を掛ければ人格が変わるわけではないが、眼鏡を掛けないと進出できない分野もあるのだ。それがマリアにとってのマシューの居場所なんだが、この男はおやじに言わせれば天才だが腹が立つほど要領が悪い。さらに世間は彼を頭の切れすぎで世間を憎む類の危険な奴と捉えている。だが、マリアには危険に加えてとりわけ誠実な人物と感じられる。
 その誠実さが周囲との軋轢の源泉でもあるんだろう。欠陥回路基盤を平気で使う電器会社に腹を立てては修理係を辞めてしまうのも、不正を嫌うこころ、偽って得る安定収入と保険を嫌悪するこころの表れである。また、自爆で果てる現場として、その不正職場へと乗り込むのも、マリアと子のために取り戻した誠実さを裏切るようなマリアの振る舞いへの失望、マリアと自分をつなげていると信じていたマリアのおなかの子をマリアは今しがた堕ろしてしまったと知ればこそだろう。
 マリアがそれに踏み切ったのが姉ペグとマシューの同衾を誤解したためであるとしても、それがマシューに知れるのは物語の外、先の話だ。マシューの自爆を予期して駆けつけるマリアにマシューが絆されるのかも知れないが、自爆を切り抜けたふたりが生きづらい世間で互いに誠実を通すにはこんな事件を経て、マシューはさらなる危険人物として重罪犯の懲役を受け、マリアは長い長い塀越しの関係を貫く必要があるのだ。これは荒んだ当時のアメリカで男女二人の最も深いとともにちょっと特殊な間柄、不幸には違いないがともに誠実であるための始まりの物語なのだ。
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