YAJ

パラダイス・ナウのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

パラダイス・ナウ(2005年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

【光を当てる】

 イスラエルの米国大使館のテルアビブからエルサレム移転による騒動が予想されるタイミングで、UPLINKがパレスチナ問題を扱った2作品のネット視聴無料サービスを行った。パレスチナ側の視点を知る意味でも、良いサービスだと思った。

 なにしろ、その移転に対する抗議デモが現地で起こっているというNHKの朝のラジオ放送の「イスラエルによる実弾射撃による多数の死者が・・・云々」という伝え方に非常に違和感を持ったところだったし。なんなんだ”実弾射撃により”って?! 軍が市民に発砲、あるいは狙撃、銃撃だろうに。なんだかボカした表現使うなあと違和感ぷんぷん(その後の新聞やらネット記事などでは、ちゃんとイスラエル軍がデモ隊に発砲という表現を見たけどね)。

 ま、そんなこんなで、西側目線では伝わってこない内容を知る、とても観賞価値のある作品でした。公式サイトのインタビューでハニ・アブ・アサド監督は、撮影前は自爆攻撃についての背景知識が全くなかったと言い、「それは暗闇にいるような感覚で、知らないという状況は恐ろしいことです」と語っている。この作品はある種、蒙を啓いてくれる。

 舞台はイスラエル占領地ナブルス。2人のパレスチナ人青年が自爆攻撃へ向かう48時間を描いた作品。作品紹介サイトには「第78回アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた際には、自爆テロ被害者の遺族たちからノミネート取り下げの署名運動が起きるなど大きな波紋を呼んだ」とある。作中、自爆「テロ」ではなく自爆「攻撃」だとパレスチナ側の言葉で表現されていた(のを字幕で見ただけだけど)。

 でも、映画紹介サイトには「自爆テロ」って書かれちゃうんだね。言葉の使い方を言ってもしょうがないけど、パレスチナ人であるハニ・アブ・アサド監督はじめ、パレスチナ側の思いは、きちんと汲んでおかないと、と思うところ。

 本作で描きたかったことは比較的明確だったかと。国、立場の違いがあり、何が正義かということは、当然問うてない。彼らの行為を正当化することも、勿論、ない。ただ、彼らにも彼らなりの”理由”があったのだということ。
 その理由を知り、理解できれば、それが解決の糸口になるという話だ。遠くて困難な道程だけど、それしかない。ほんとうの理由を、まず知ること、知ろうとすること。その一歩から理解は始まる。

 「映画とは特定のものに光を当てる作業」
 と監督は言う。
 強烈な光を見ることになる問題作だ。



(ネタバレ、含む)



 緊張感あふれる作品だった。なにしろ主人公たちは作品後半はずっと自分の身体に爆弾を巻いて過ごしているのだから。画面を通して見ているだけでも手に汗握るのに、実際に爆弾を巻いて過ごすなんて狂気の沙汰以外のなにものでもない。
 ― と、普通の感覚では思うのだけど、彼らは至って平静だ。自爆攻撃を仕掛けようとする時より、むしろ作戦が遂行されずに、その善後策に走り回っているときのほうが、よほど焦って額に冷や汗をかいている。「殉教者には天国が待っている」と信じ込まされているが故なのか?

 でも、そこがメッセージだとしたら、宗教は恐ろしいとか洗脳は怖いという話になるのだけど、本作はさにあらず、もう一歩踏み込んでいるところが見事なところ。

 主要登場人物は、自爆攻撃の実行班の幼馴染同士と、主人公とほのかに恋心の芽生えそうなヒロインの3人である。それぞれがパレスチナの問題、自爆攻撃に対する意見、考え方をぶつけ合う。
 ヒロインのスーハは英雄の娘で外国育ちでいい生活もしている。彼女はパレスチナを外から見た広い視野を持っている。彼女の説得しようとする力は、ある意味、西側の常識に近い。
 それに対しサイードとハーレドの2人は占領地区の中だけの価値観しか持ち合わせていない。

 ところが、最初はサイードよりも熱く自爆攻撃への参加に息巻いていたはずのハーレドは、1度目の未遂後の再実行時には、スーハの言葉を引用しサイードを説得し引き返そうとする。真実の一端に触れることで人は考えを改めることも可能だということか。自爆攻撃にイケイケだったハーレドが思い直すことで、彼らも人間だし、洗脳された狂人ではないということが判る。強がりつつも弱さも持った、我々となんら変わることのない若者なんだと思えてくる。
 が、そんな友の説得を振り切って、主人公のサイードは作戦遂行のため一人テルアビブの街へ深く潜入していく。街の様子が車窓の風景として描かれる。占領地区の砂埃で乾いた貧しい風景とはまるで異なり、高層ビル、商業施設、建物の壁面に描かれたSAMSUNGの巨大広告、青い海に華やかなビーチリゾート。この圧倒的な富の偏りを見て、何も思わない者はいまい。

 ただ、サイードの決定的意志は、こうした格差に起因するものでもなく、イスラエルによる理不尽な占領による不自由さからくるものでもない点。
1度目の未遂の後、「組織」の指導者に実行班から外されると宣告された時、彼は自分の半生と家族、父親のことを語る。父親は、イスラエルの策略で同胞を売った裏切り者、密告者として捕えられ挙げ句殺さた。またそのことで難民キャンプの中で虐げらた家族となったであろうことは容易に想像できる。表情も乏しく感情を露わにしない彼の立居振舞いから、既に人としての感情を捨て、自分を消し目立たぬように過ごして来たのだろう、そんな風にも見えてくる。

 故に、彼はそんな自分の、あるいは家族の境遇に変化を、ある意味終止符を打ちたかったのだろう。イスラエルにも同胞にも虐げられた過去に自分の居るべき場所を見いだせていなかったに違いない。人の存在価値というものは、宗教や格差、国家や領土と言った問題ではなく個人の問題であり、そこにサイードが自爆攻撃に向かう理由があった。この理由は、なにもパレスチナだから持ち得る話でもない気がしてならない。

 もちろん、そんな理由を生み出した社会環境はあろうが、大局的にパレスチナの問題と一括りにしていいものではないということを彼らの行動、葛藤、そして決意を見て強く感じた。

 では、悲しい過去を持つサイードの心を変えることは出来ないのか? 決行前夜、サイードがスーハに会いに行く。
 スーハから「また会える?」と聞かれて、「そうできたら」と答える。彼の表情に微かに逡巡が見られた気がした。当たり前に、普通の若者として生きることへの執着、未練がサイードにも確かにあった。彼らを思いとどまらせることも不可能ではなかったと思いたい。

 そして、見事なエンディングだった。
 サイードやハーレドとなにも違わないイスラエル側の若者たち。軍服を着た兵士たちも多い。そんな大勢が揺られるバスに乗り込んだサイードの無表情な目にカメラは徐々にクローズアップしていく。そして一瞬、白い光に包まれたかのように画面は真っ白に。ハニ・アブ・アサド監督が”特定のものに当てた光”は鮮明に網膜の残像として記憶されることになる。

 その後は無音のエンドロール・・・。黒と白の見事な対比。
 「組織」のリーダーから、死んだ後には天国に行けると諭されるが、そこは音もなにもない場所という暗喩か。深い。。。。
YAJ

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