カラン

特別な一日のカランのレビュー・感想・評価

特別な一日(1977年製作の映画)
4.0
戦火の出逢い

第一次世界大戦後、ムッソリーニのファシズムが幅をきかせ、イタリアは国際連盟を脱退し、ドイツ、そして日本に接近し、枢軸国を形成しようとしていた。ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦の口火を切ることになる2年前、つまり1938年の某日、それがこの映画の舞台で、その日の早朝から夜までのドラマが展開される。ナチスがローマを行進し、ファシスト一色のイタリアが熱烈に歓迎し、セレモニーが開かれている。集合住宅の窓や壁、いたるところにイタリアの三色旗とともに、いかめしい深紅のハーケンクロイツがたなびいている。

アントニエッタ(ソフィア・ローレン)は6人の子供と夫をファシストの集いに送り出すのに忙しい。彼女の言うことをきかないが、自分たちの言いたいことだけを言ってくる夫と子供たちを送り出すと、既に疲れ切っている。集合住宅の住人はほとんど全員がセレモニーに向かったが、メイドはいないが雑用ばかり押し付けてくる家族のせいで彼女だけが大きなタワーに居残りに。窓から人気のない虚空に飼っていた九官鳥が逃げてしまい、向かいのタワーの屋根にとまった。するとガブリエーレ(マルチェロ・マストロヤンニ)の人影が…

化粧もせず、髪も後に結った、眉毛のないソフィア・ローレンは、恋など感じようもない8人住まいの部屋に生きている。タイツも小汚く破けてしまったいる。当時のごく一般的なローマの庶民であろう彼女は、アルバムに「男は夫であるか、父親であるか、兵士である」というムッソリーニの言葉なのかを書きつけて、マッチョな男根主義のファシズムを、たぶん訳も分からず信じている。マストロヤンニはチョッキを着て、几帳面な表情で何かを書きつけては拳銃を眺めている。かかってきた電話で男の名前を呼び、「ずっと想っていて欲しい」などと言う。

男根主義のまっただなかで固有性というのか、女というのか、を喪失している女と、ファシズムの中で生きていくことができないホモセクシャルの男の出逢いの物語である。貞淑やうしろめたさを暗示するものなのか、バックショットというか、人物の後頭部がよく映る。薄茶のがらんとした建物のなかで、結びつくはずのない想いが、結び目を作ったり、ほどけたりしていくのは、よくあるメロドラマ的展開だが、後味の空虚さはたまらなく感傷的である。愛し合っていないし、愛し合えないし、勘違いから始まった続くわけもない気持ちなのだが、身体が触れ合う。スケベ話でなく、もう少しじっくり、2人の虚しき愛の運動を描いてもよかったのではないか。マストロヤンニは死んだ魚のような目で乳房をまさぐるが、ソフィアローレンのキスは控え目である。それはそれでいいのだが、ホモセクシャルとファシストの団地妻というのはなかなかない素敵なカップルなので、もう少し長くしてもよかったのではないかな、いやスケベ根性でなくてね。
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