このレビューはネタバレを含みます
現代のニューヨーク。セントラル・パークで突然、人が次々と自殺する異常現象が発生した。フィラデルフィアの高校ではテロ攻撃との一報を受けて生徒を帰宅させ、理科の教師エリオットは妻のアルマと共に同僚のジュリアンの実家に避難することになったが…。
ある日突然、原因不明の惨事が多発する。
果たして人々は生き残れるのかー?
今にして思えば、細菌テロとウイルス感染を混ぜたような恐怖を一市民の目から見た予見性を感じる作品。
クセのあるサスペンス映画作家M・ナイト・シャマラン監督のパニック・サスペンスの佳作である。
突然、時間が止まったかのように人々の動きが止まる。
かと思えば、後ろ向きに歩く異様な光景。
その後、女性が首に髪留めを突き刺したり、ビルの工事現場では屋上から人が次々と飛び降りて自殺する。
細菌テロか?集団催眠術か?
理屈や原因がさっぱり分からないのが不穏な空気を醸し出す。
目に見えない謎に直面した恐怖である。
未知の恐怖に人々は恐れを抱き、アメリカ東部から離れようとする。
列車で出発するエリオットたち。
だが、列車は管制室との通信が途絶え、途中の田舎町で停車してしまった。
これ以上、進むのは危険だという判断だ。
立ち寄った食堂で、異変はアメリカ北東部に限られるとのTV報道を見て、人々は車で西を目指す。
同僚のジュリアンは列車に乗り遅れた妻を探すために、幼い娘ジェスをエリオットたちに預けて別れて行動する。
農家の夫婦の車に便乗してエリオットたち。
だが、しばらくしてジュリアンの乗った車は、住宅地の木に突っ込んで大破。
運転手は放り出され、生き残ったジュリアンも車の破片で手首を切って自殺する。
その車の幌には小さな穴が空いていた。
どうやら何かしらの細菌が入り込み、空気感染するようだ。
つまり、「吸い込んだら死ぬ」という代物である。
2010年代からホラー映画界で流行る「〇〇したら死ぬ」のハシリではなかろうか?
道中、田舎道の交差点に行き場の無くした人々が集う。
どの方向から来た車も自殺した遺体を目撃し、怖くて窓を開けられなかったと言う。
エリオットらは道ではなく、徒歩で草原を移動することに。
数グループに分けて進む一行。
集団の中でも人数の多いグループが自殺を始めてしまう。
人数が多いということが何らかの引き金になっている。
人数が多いことで刺激を受けるものと言えば、周囲には踏みつけられる草木などの植物しか存在しない。
理科教師であるエリオットは、この状況と大都会NYで植物が多く人も多いセントラルパークが一番に被害にあったことから、植物が毒性を持ち、何らかの物質が風に運ばれて拡散すると推理する。
エリオットらは少人数で移動し、最後はアルマとジェスと3人きりとなり、山奥の一軒家に辿り着く。
家の持ち主の老婦人は異変を知らなかったが、一行を温かく迎える。
だが、翌朝エリオットらを泥棒と疑い、出て行けと急変する老婦人。
直後に外に出た老婦人は風にあたって自殺する。
ウイルスがここまで来たと、咄嗟に屋内に入ったエリオットとアルマたちは母屋と別棟に離れ離れになってしまう。
外が全て汚染されたなら、もう逃げられない。せめて一緒に死のうと決心して外に出るエリオット。
だが、彼らは無事だった。
突然収束した今回の現象について、報道では盛んに議論されるが、原因は不明。
まるで生物兵器が時間が経過して効果を失うかのようである。
しかし、その3か月後、同様の現象がフランスでも発生する…。
散々引っ張っておいて、結局は人々が自殺する原因が不明だというのが本作の最大の難点。
どの映画サイトでも賛否両論。
しかし、個人的には擁護したい。
ジョージ・A・ロメロ監督のゾンビ映画のようなパンデミックにおける一庶民の視点があり、エリオットが家族を守るために奮闘する姿は、アルフレッド・ヒッチコック監督のような巻き込まれ型のサスペンスがあるからだ。
突然、生命の危機を感じる異常事態に放り出されたら?
しかもそれが目に見えないものだったら?
劇中では主人公エリオットによって、それが奢れる人類に対する自然の復讐ではないか?と推理される。(実証されてはいないが)
ならば、人類がどれほど自然の力に対して無力なことか。
ある意味でディザスター映画でもあるのだ。
謎のウイルスはヒッチコック映画でいうところのマグガフィン(物語が成立するならそれ自体が何であるかは重要ではない、どうでもいいモノ)である。
本作はウイルスパニック映画と違い、原因がはっきりと分かってはおらず、ディザスター映画のように回避も防御も出来ず、ましてや阻止するなど出来ない無力感が、いまだに新鮮に感じる。
悉く定石を外しまくる違和感と、そこにいることの居心地の悪さがある。
特に人々が徐々に狂気に陥る描写は、自分がその場に投げ出されたら?と思うと、心に残るものがある。
映画としては明らかに呆気なさや物足りなさがある。
しかし、一市民の平穏な日常が突如脅かされ恐怖に翻弄される様は、コロナウイルスのパンデミックを経験した今となっては現実と近いものに感じられるのだ。