さわだにわか

WXIII 機動警察パトレイバーのさわだにわかのレビュー・感想・評価

WXIII 機動警察パトレイバー(2001年製作の映画)
4.0
最初に観た時には少しも面白くないばかりか陳腐な内容に腹が立ちさえしたがオールナイト上映で観直したら全然良くてびっくりしてしまった。

劇パト2のスタイルを踏襲しているとはいえ押井映画と決定的に異なるのは劇パト2で言われるところの「幻想の中でしか生きられない人間」、形ばかりの平和の中で虚偽意識にどっぷり浸かった凡庸な庶民の視点を徹底しているところで、都市のノマド・エリートとして水路や地下道を自在に移動しながら己の正義のみに従って行動する特車二課(というより後藤隊長)の物語であった押井版前二作に対してはむしろ否定的なトーンが相当に強い(草野球から物語を始めるなんて押井は絶対やらないだろう)

後藤隊長やそのダークサイドとしての帆場や柘植と違って慣れ親しんだ土地から離れられず、正義のために個の記憶や感情を犠牲にすることのできない人間たちがここでは描かれる。押井と同じように都市風景をスケッチしつつもそのタッチはまったく押井的ではない。押井が風景をある状況をシミュレートするための道具として用いるのに対して、こちらはあくまで風景をリアルな風景として捉える。そこには具体的な生活があり、労働があり、走り回るガキどもがいる。

その光景を眺めていると劇パト1において『天国と地獄』とか『野良犬』を参照したと思しき再開発の犠牲地巡りの場面に、本来その主体であるはずの住民が奇妙に欠如していたことに気付かされる。この映画で特に目を引くのはキャラクターのマイノリティの多さで、刑事は骨折して杖を付いているし、その捜査には読唇術を使う聾唖の黒人女性が一役買う、倒すべき敵はガン細胞を移植されただ生き続ける以外なにもできないミュータントである。これは押井の描く空虚な(だからこそ魅力的な)風景を考える時には示唆に富む。特車二課にはその作戦行動の役に立たない人間、家族的組織の論理に染まらない人間、ただ個として生きるだけの人間は存在しないからだ。

オールナイト上映で劇パト三作(+ミニパト)を通して観ると、シリーズの中では最も浮くこの三作目の方にこそ、むしろ押井が前二作で捉えようとして捉えられなかった風景があるのではないかとさえ思った。テロがあろうが何があろうが愚鈍かつ無責任にもなんとなく適応して生活してしまえる、生き生きとした庶民の風景。帆場が転居を繰り返して追い求めていたものは案外そんな素朴な風景だったのではないか?帰国した柘植が姿を消したのもその風景の中に自分の居場所が見つけられなかったからではなかったか。

この映画自身が制作会社の倒産で廃棄物になりかけたと今回の上映に伴うトークで初めて知った。完成までにはずいぶん紆余曲折もあったようで、押井が前二作で捨ててきたものを制作会社からも押井からもヘッドギアからも捨てられた(降ろされたのかもしれないが)奇形児の如し三作目が海底から拾い上げてきたのだと思うと、なんだか涙腺に来てしまう。

捨て子映画とは思えないサスペンスフルな演出も沈痛で詩情漂う物語も怪物のおぞましくもエロティックな造型も素晴らしかったが、なによりもうほぼほぼレイバーも特車二課も出てきやしないこれが劇場版パトレイバーの最終作であることが、作品に特別な価値を与えていたように思う。
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