このレビューはネタバレを含みます
アケルマンが男を主人公にして何がしたかったが論点だ。
フレームの切り方は『ジャンヌ・ディエルマン~』を彷彿させるが、予算がかかっている割には商業映画らしさを嫌う物語に起伏がないドラマ展開。さらに物語も邦題は『囚われの女』だけれど、囚われているのは男であって、不思議な映画だ。それもプルーストの小説「失われたときを求めて」の第五篇「囚われの女」の翻案であり、アケルマンのオリジナルとは言えないとしても、イメージにはアケルマンの意志がある。
男女は二人にはなれないこと。
シモンとアリアーヌはカップルであり、一緒にお風呂に入ることはあるけれど、セックスはしない。シモンがアリアーヌに一方的に性的欲求をぶつけるだけだ。しかしその欲求は解消はできず、途中で果てる。何とも悲痛な風景だ。
それも二人の間には他者がいるからだ。それは祖母の場合もあるけれど、アリアーヌが美術館に行くときに、突如フレームインしてくるアンドレといった女友だちだ。
シモンは思う。
アリアーヌは自分といるときは楽しそうな表情をしない。アンドレといたほうが嬉しそうだ。もしかしたらアリアーヌは女ともだちの方が好きで、その好きは同性愛かもしれない。アリアーヌのことは愛しているし、彼女の大切な人も大切にしたい。けれどアンドレのモノにはされたくない。
そんな訝りと嫉妬。
恋愛が必然と破綻することがよく分かる。シモンが別れを切り出すのもよく分かる。
けれどそんなものだと思う。恋愛も夫婦生活も。いつまでも熱狂的に愛しているわけではない。生活の必要のためにいることもある。だけど好きな気持ちもある。アリアーヌのシモンに対する好意のように。それでいいと思うし、適切だ。それがよき人付き合いだ。
シモンが溺れるアリアーヌを助ける劇的な出来事はあるが、そのドラマは極力排除され、引きで撮られた船での2ショットはシモンとアリアーヌではなく、シモンと男の船主だ。このイメージはどこまでいっても二人になれない残酷さを物語っている気がする。希望はないのだろうか。それを知るため男を主人公にした『オルメイヤーの阿房宮』に向かった。
追記
アケルマンの映画において「歌うこと」はどのようなものかとても気になる。本作でもアリアーヌは歌うのだが、それはレッスンとして日常のひとつの慣習として描写されることも、また向かいの窓にいる女性とデュエットをするといったフィクショナルな出来事としても語られる。後者の描写について、向かいの窓の女性は柵越しでアリアーヌの窓は開かれており、「囚われ」の意味も微妙に変容しているのが興味深い。アリアーヌは窓から飛び出すことができ、夫婦生活を抜け出すことができる自由もあるが、死ぬこともできる自由がある。この開かれた不自由さがアリアーヌに「囚われ」として意味づけられているような気がする。また歌については心情の代弁の作用はなさそうに思えるが、どうなのだろう。