このレビューはネタバレを含みます
蘇生
「だから、もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることは、あってはならない。
今、私が生きているのなら、あなたが存在してはならないのだ。」(p.147 ハン・ガン『すべての、白いものたちの』☆1)
二人のベロニカの邂逅が物語の中心になると思っていた。ポーランドで歌手になろうとしているベロニカとフランスで音楽教師をしているベロニカ。しかし二人の出会いはフィルムの1コマに痕跡を残すだけの一瞬であり、ドラマは決して生まれない。さらにポーランドのベロニカは、コンサート最中に突然死をしてしまう。この呆気なさに驚いたし、片割れが物語から姿を消してどんな展開になるのか予想がつかなかった。
フランスのベロニカは、学校に人形劇をするためにやってきたアレクサンドルに恋する。彼女がなぜ彼に恋をしたのか、決定的な理由は分からない。彼がかっこいいのは分かるし、人形劇も感動的なのは分かる。きっと彼女が霊感的にポーランドの彼女の死を直感したのもあるのだろう。それは言いようのない悲しみとしてではあるが、劇で人形に魂が吹き込まれる様は蘇生のようで、心動かされたに違いない。
ただ物語は、ベロニカがアレクサンドルと恋愛を成就させハッピーエンドを迎えたようには思えない。彼女は二つの物語を拒否する。一つはベロニカがアレクサンドルと再会するまでの物語。もう一つは、彼が二つのベロニカがいた現実を盗用して創作した人形劇の物語である。
この拒否の素振りに、彼女が物語に自身の生を与さない態度が窺える。それは前述の引用をかりて言えば、「もしもアレクサンドルの物語が生きているなら、ベロニカが今この生を生きていることは、あってはならない。今、ベロニカが生きているのなら、アレクサンドルの物語が存在してはならない」ということだろう。
この時、本作は人形劇に蘇生を見出す物語でもなければ、フランスのベロニカがポーランドのベロニカの代わりに生き始める物語でもなくなる。ベロニカはあらゆる物語化を拒否し、亡きベロニカと共に二人で「生」を始めていく。それこそ蘇生と言うべきものであろう。
木の幹に触れるベロニカ。その後の未来について私たちは感知できないけれど、映画による物語化さえも拒否する「生」の姿だけは知っている。
☆1 ハン・ガン(2016):흰(THE WHITE BOOK)(斎藤真理子 訳『すべての、白いものたちの』、2018、河出書房(文庫版『すべての、白いものたちの』、2023、河出文庫)本稿では文庫版を使用)
追記
ポーランドのベロニカが恋人と再会するシーンがよい。恋人はベロニカに電話がきたら会いに行くといって、バイクで去る。ベロニカは思い悩んだ後、バイクの彼を追いかけて走る。決して追いつかないはずなのに、カットが切り替わると二人は再会できてしまい、ベロニカはバイクの後部座席に跨がる。この距離の踏破は現実ではありえない。でもフィクションだからできてしまうし、できてしまうことに納得もいってしまう。これこそ映画だと私は思う。