三角

天使にラブ・ソングを…の三角のレビュー・感想・評価

天使にラブ・ソングを…(1992年製作の映画)
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エレメンタリースクールでキリストの弟子の名前を尋ねられ、John、Paul、George、リンゴ…と答えるデロリス、あなたは手に負えませんと閉口する修道女…恐らくこの子にとって水と油のような存在である宗教、修道院とどう出会い関係性を結んでいくかがこの話のプロットの根幹であるというのが示唆される。
大人になったデロリスはbiggest little Cityリノのカジノともゲーセンともつかぬバー、ムーンライトで歌手になっている。女で黒人で、その上オーナーの男の2号さんである。機嫌取りに妻のコートを送られるデロリス…こんな毎日はクソすぎる。やめてもっと別の街でやり直そう…というところで愛人の殺人を目撃しマフィア一家に追われる身に…身を隠すために修道院へ
金ローで人気のファン多数有名作品という印象だったけど面白いよりは画面も展開も地味だな…という感想が立ってしまった。もうちょっと乱闘があるのかと期待していた。
思うことは沢山あって、デロリスは元愛人にもはや情もないし命狙われておりさっさと捕まって欲しいと思っているのに対して男はデロリスに銃口を向けながらもbabeと呼び続け愛してるんだよと叫び続け…
そもそも男はバーのオーナーであるのだから、この関係は権力勾配のあるものであったわけで、要するにこの男の言う「愛している」は家庭に飽き足らず仕事先の女も支配下に置きたいという意味である。そのような男性性による抑圧下にあるのがデロリスである。
またデロリスを匿う警察の男というものも居て、お前の身の安全のため隠れなさいというのもまた別の男性性による抑圧であるのだが、それでデロリスが辿り着く先は女ばかりの修道院である。
シスターたちの毎日祈って歌ってれば最高だよね、男などいらないよね、という雰囲気はユートピアめいており、夜遊びでクラブに行っても女と踊ってるシスター、主に全て捧げますと歌い上げるシスターたちというのは、セーラームーンのうちら姫に命捧げたので男なんてお呼びじゃないのよとレイちゃん美奈子ちゃんが言い捨てるシーンとかを思い起こさせたりもするんですが、結局キリスト教なんてものも巨大な父親像というか男性性であるので、男性の承認のもと同姓同士の交流を深めていく女たちということでしかないと思った。ローマ法王の来訪に喜ぶ修道女たち…どこまで行ってもダメじゃねぇかよみたいな感じでめちゃシラけたよ、
デロリスが修道服に着替える
→主人公が一度変質する
→故郷を追われて別の場所に放逐される
→変装が身を守るアイテムにもなっている
何要素も構造の要請を満たしていてすごいコスパがいいよ。(マフィアたちチンピラは殺せてもシスターは殺せないというのもけっこう説得力あるエピソードと思うし、マフィアこそ信心深いというのは。)
そして最後にテーゼとアンチテーゼが融和してこそオチがつくというものなのだが、あれは聖歌興行で大成功みたいなことなの?
それでいいんか?とは思った。そもそも西洋社会の地域のためにある協会や信仰ってもの、楽しければみんな集まってくるよ!とか白黒パッキリしてるものとは思えないのですが…マジの貧困とか苦悩によって存在しているはずである。その辺の事情をよくわかってない日本でだけ人気なんじゃないのこの映画…とすら思ったんですがどうなんでしょうか、なんでも興行化していくアメリカ的にはオッケーみたいな感じですか…わかりません。
私はキリストの弟子の名前を尋ねられ、John、Paul、George、リンゴ…と答えるデロリスが良いと思うよ
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