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彼岸花のotomisanのレビュー・感想・評価

彼岸花(1958年製作の映画)
4.0
 知り合いの娘さんには捌けたおじ様と見えたかもしれないが、厳に平山家の当主とあってはその沽券というものがあって、どこかの馬の骨青年から子猫を引き取るかのように娘さんを下さい頂戴と言われてもお引き取り願うほかあるまい。こののちお叱りを被った佐多青年は出禁を食らったらしくスクリーン上ろくに現れない。それどころか、めでたいはずの婚礼風景さえカットの憂き目だ。
 この沽券というやつがどう綻んでゆくのか、あるいは、娘の結婚という大事ではあるが、そもそも娘の意思を遮って信用第一の仲人口を押し付けたものかどうか?また、媒酌人も立てぬ無礼者、粗忽者相手とはいえ娘の決めた相手をそうも無碍に撥ねつけたものか?本件は沽券の域外、現代的新事態と認められるのか?それとも、沽券の適用範囲の変更を許すのもいいのか?
 この件に明確な解は見つからないのだろう。蒲郡から京都へじわじわ西下する中、古い男同士で解しあう気持ちの整理と赤の他人の出しゃばりを得て、いや、そんな出しゃばりの尻押しを期待して定宿の姦しばあさんを訪ねるのだろう。それとも、時がものを解決するのか、娘恋しさが沽券を乗り越えるのか、遠距離デートに広島へ、50万市民に紛れて誰憚ることなく「さびしくないか」とでも問うのだろう。

 この広島での第一声が実はこの物語のハイライトとなるべきだったろう。しかし、淀川を渡る列車を見送って我々は退場を求められる。大阪を目前に平山は電報を撤回するのか、無事、新生広島に降り立つのか?
 ただひとり、秋陽の山陽路5時間の心模様を想像するに、この二十数年の一家で経てきた諸々の回想と、蒲郡の夜に笠元中佐の吟詠が呼び起こした、青雲の夢が潰え国体に殉ぜんとした血気の時代の記憶とをたたかわせるのだ。
 しかし、新しい時代を迎えて息を吹き返したに違いない平山が同じ時代の空気を吸って育った娘と粗忽者を受け入れられない理由は何だろう?
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