カラン

ミラーズのカランのレビュー・感想・評価

ミラーズ(2008年製作の映画)
4.0
元刑事の男(キーファー・サザーランド)は、誤射事件の後、メディアに叩かれ、家族から離れ妹の家に身を寄せ、酒に溺れていた。社会復帰の手始めに警備員の職に就くと、放火事件の決着のつかないデパートの廃墟であった。その鏡に何かがいる。。。


☆悪魔祓い系へ?

3500万ドルとなかなか予算を組んでもらったようだ。炎の質感など悪くないが、ホラー映画によくある「目の錯覚か?」の加工、画面がじじっとするやつ、があまり上手くない。『セッション9』(2001)的な多重人格の統合失調を引っ張って、奥さんが鏡の化物を認知した後半に一気に悪魔祓い系に進む。鏡の拷問部屋は監督の想像上のフランシス・ベーコンかな。
 

☆ホラーとアクション

悪魔祓い系と書いたが、修道女は爆裂してガラス片にまで分解、飛散する。(^^) で、どうして鏡の中の怪物と戦うのかというと、鏡の中に入ることによってである。本作は実は、アクション映画的な解決をホラー映画に持ち込んでいる。世界に働きかける運動をホラー映画はドラキュラ系やゾンビ系に委ねてきた。

例えば、『リング』(1998)では、貞子のゴーストが世界に闖入する。そしてテレビのある床を這いつくばる。そこでカット。犠牲者のショットは既に死んだ後のものである。ここには運動はない。『呪怨』(2002)のゴーストは奥菜恵や伊藤美咲に恐るべき出現を果たすとカットになる。純粋な超越の表象で、運動はない。後半には仏壇の向こう側に犠牲者を引きずり込む運動をするのだが、これは人物の運動が純粋超越の表象によって既に無化されてしまっており、運動の不在を強調する。『スケアリーストーリーズ』(2019)も、こうした純粋な超越によって運動の不可能性を刻印するホラー映画である。

なぜなのか?考えてみれば当然であるが、《動けない》、これこそ《恐怖》のイメージだからだろう。ホラーはホラーが極大化するときに運動を極小化するのである。本作は、鏡の中の自分が首を掻き切る時に鏡の外の自分の首が切断される。どうしてだ?この人物は劇中では、鏡の中の自分に殺されたようにカットが入る。しかし、後に他所で自殺したと明かされるのである。ホラー領域と現実的領域が曖昧に入り混じり、いつのまにか鏡の中=ホラー領域に現実的な人物が入り込む。

ゴースト系のホラー映画は、ジル・ドゥルーズが『シネマ』で「行動イメージの危機」として語っているものの圏域にいまだあるようだ。本作はその圏域からの分岐の線を示しているように見えるが、、、どうだろう、まだ自覚的ではないのかもしれない。しかし、新しいものが始まるかもしれない。本作のアレクサンドル・アジャもそうだが、ジェームズ・ワンなども期待するべきなのかもしれない。


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