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水戸黄門海を渡るのKumonohateのレビュー・感想・評価

水戸黄門海を渡る(1961年製作の映画)
3.7
1910年の尾上松之助版を皮切りに、全部で30本近く作られた映画の「水戸黄門」。本作は、大映版としては3作目にあたり、大河内傳次郎、二代目中村鴈治郎に続いて、長谷川一夫が黄門様を演じている。歴代水戸黄門俳優の中で最多登板を誇る東映の月形龍之介版の最終作「水戸黄門 助さん格さん大暴れ」と同年同月(1961年7月)に封切られているようで、東映版が「助さん=松方弘樹」「格さん=北大路欣也」であるのに対し、こちらは「助さん=市川雷蔵」「格さん=勝新太郎」という豪華版。ガチの真っ向勝負は、果たしてどちらに軍配が上がったのだろうか。

内容的には、原作と脚本に川内康範が名を連ねているだけあって、「水戸黄門」としては一癖も二癖もある変化球。舞台は蝦夷、実際にあったアイヌ民族の一斉蜂起を率いた大首長シャクシャインが登場する。そのシャクシャインが、松前藩に対して攻撃を仕掛けようとするのを水戸黄門が食い止めるというストーリーは全くのフィクションだが、民族の対立と融和という “らしからぬ” テーマを持った異色作となっている。しかも、相手が徳川家を頂点とするヒエラルキーの外にいる異民族なだけに、天下の副将軍としての威光など通用しない。だから当然、「控え控え!頭が高い!ここにおわすをどなたと心得るか⋯」の印篭シーンも無い。水戸黄門なのに反権威反権力という、異色作を通り越した問題作かもしれない。

ただ、物語の序盤で助さんが行方不明になり、中盤、深編み笠で顔を隠した虚無僧姿で再登場するも明らかに演じているのは別人(声が全然違う!)で、終盤になってようやく雷蔵本人が復帰して顔を見せての大活躍!という、役者のスケジュール事情がバレバレ、みたいな詰めの甘さが散見される。格さんとアイヌの娘(野添ひとみ)との恋バナも中途半端だし、アイヌとの約束を心ならずも破ってしまった黄門様の心の決着も何だか曖昧である。

そして、そうした詰めの甘さの最たるモノが、「アイヌと和人との共存共栄」というハッピーエンドを謳っておきながら、明らかにアイヌが従属しているようにしか見えない結末である⋯⋯⋯と思ったが、もしかしたら、それこそ川内康範の真骨頂かもしれない。確かに史実では、シャクシャインは松前藩に敗れて謀殺され、その後、和人によるアイヌ支配が強まっている。ということは、本作の詰めが甘いかに見える結末は、実は川内康範による故意で、そこには痛烈な皮肉や批判が込められているのかもしれない。う〜ん、やはり大問題作であったか。
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