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エクソシスト3のaのネタバレレビュー・内容・結末

エクソシスト3(1990年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

・本作の原作は、監督のウィリアム・ピーターブラッディの小説『Legion』であり、そもそもこの原作は全くもってエクソシストの続編ではない上に、原作には悪魔祓いすら登場してこない。しかし本作のプロデューサーは、商業的な理由から「エクソシストⅢ」と改題させ、以降は映画の3分の1に悪魔祓いのシーンを新たに追加する形となった。


・その上監督は、前作である『エクソシストⅡ』(1977)を全く気に入っていなかったため、最後まで本作の主題の変更と悪魔祓いのシーンの追加には抵抗していたそう。『エクソシストⅡ』では、リーガン、シャロン、メリンの後日談、本作ではキンダーマン、ダイアー、カラスの後日談が描かれている。この点、前作が非常にSF的に物語が進行していたのに対し、本作は逆に話のスケールがこじんまりとしすぎていて、その対比が何も影響を及ぼさないので、そこがどうしても気になってしまった(勿論、70年代の映画に求めすぎるのは無理がることは承知だが、とりあえずは一作目のフリードキン監督が制作していた物を観たい気持ちの方が強い)。


・本作は知名度こそ高くないが、批評的には根強い評価がある。その最大の理由は、主演俳優であるジョージ・C・スコットの演技にある(彼に限らず、全員が非常に卓越した演技を見せている点は評価できる)とともに、後述の通り洋画ホラーにはない要素を落とし込んだからだろう。


・しかし、結論から言うと個人的にはどうしてもイマイチな印象が最後まで拭えなかった。


・確かに、本作は最初から非常に静謐な環境が用意されており、そこでは豊富な演技の数々を観られるとともに、語られる内容は全て伝説的な一作目の後日談なので、それだけでも全部観たい気持ちにはなる。また、元々がエクソシズム映画ですらなかったとはいえ、脚本が退屈だったということでは必ずしもない(特段引っかかるオチでもなかったが…)。


・そして、本作は静かなように見えて実はジャンプスケアが非常に多彩である。それは少女の声に突然変異するシーンもそうだが、視覚的にも、急に娘が冷蔵庫の前に立っていたり、歯がクローズアップされたり、介護施設では老人が天井を這っていたり等、不気味な演出には事欠かない。日常シーンの中でも、定期的にドアや氷の音が鳴り続けたりと、大きな音と無音が終始連続するので、本作でいう恐怖と言うのは、その全てがこれらの「びっくり演出」によって構成されていると言っても、差し支えないように感じる。よくわからない音がつぎはぎされている点も、単純に怖い。


・これにより、途中で何回か不意に恐ろしく長回しのカットが入っても、観客の心は「いつびっくりさせてくれるのか」とドキドキしたままの状態なので、逆に本作の静謐した環境というのが前振りとしてのドキドキを増大させてくれる。批評家の言う「神秘的な怖さ」「ジャパニーズホラーに通じる怖さがある」と言うのは、さらに言語化するとこのようなことだろう。


・日本人ならよく知る通り、ジャパニーズホラーは「びっくり」と「静謐さ」を交互に出すので、観客の注意を事欠かない作りに最初からできている。この『リング』『らせん』に始まるジャンプスケアに全振りな雰囲気は、海外ホラーのどの要素にもないし、本作はこれらをよく落とし込んでいるだろう。


・しかし、このびっくり的な怖さというのが、映画という媒体において何かそれ以上の批評的評価や、それを超えたホーリーな雰囲気を作り出す演出かといえば、個人的にはそのようなことはないと思っている。というのも、そこに言う怖さというのは、2時間強によって作られる物語性、および監督の主張や、観客が持っている観念の如何にかかわらず、それ自体として独立してしまうものだからだ。例えば本作でいうと、もし「天井を這うおばあさん」や「つぎはぎされた少女の声で話す囚人」が別のファミリー映画やお化け屋敷、あるいはツイッターやパチンコの画面までにも突然登場したとすれば、それは誰が見ても怖いものや、驚きに満ちたものとして成立する(パチンコという文化は、その誇大性という構造自体において、この例の極北であろう)。本作でいう怖さの普遍性というのは、観客の意識の中にあるものを引き出すのではなく、いかにストレンジで、変わっていて(この変さというのも、例えば本作のオープニングクレジットでは黒人の少年が繰り返し追ってくることで表現している。怖さというのは容易に差別意識とも結びつく問題意識にも、本作は無関心だろう)、心臓の鼓動を早めて、アドレナリンジャンキーにさせるかということに終始しているものではないだろうか。


・蛇足かもしれないが、特に映画という媒体は、上の問題意識について厳しくあるべきだ。ただ怖いもの、ただかっこいいものを、大きな画面と大きな音で見せることが、その誇大性において政治利用された結果、ハリウッド含め世界中でそれらが「プロパガンダ映画」として、世界大戦の兵士の士気高揚を後押ししてきたという歴史的反省があるはずだ(その問題を最初に真っ向から指摘したのは、1920年代のチャップリンとウォルト・ディズニーだ)。映画は劇薬であるからこそ、(本作はそれほどまでにはないにしても、しかし)有色人種や悪魔的な人々を既成概念として怖がることには常に慎重であるべきだし、普遍的なメッセージを内包している必要がある。


・総評。確かに演出は非常に巧みで、ホラー映画の中でも怖さや不気味さで言えば確実に上位に入るのですが、どうしてもエクソシストとい宇傑作の続編であることを考えると、悪魔についてもっと踏み込んだ解釈が欲しかったです。『エクソシスト・ディレクターズカット版』(2000)で追加されたブリッジシーンの雰囲気をそのまま2時間やっているような感じで、これはこれでいいのですが、映画として評価すると、どうしても高い評価ができなかった、というのが正直な感想でした(でも、3作それぞれで全く違う怖さを描いているのは、それはそれで凄いシリーズでもある気がします!)。この問題は水に流すことにしましょう。アーメン。
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