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ジャングル・ブックのaのネタバレレビュー・内容・結末

ジャングル・ブック(1967年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

・本作は、ディズニーの中で19作目であり、同時にウォルト・ディズニーが監督した最後の作品でもある。本作の制作中、ウォルト・ディズニーは亡くなった。彼含め、本作の興行について、社内では疑問視する声が多かったものの、結果的に本作は興行成績が非常によく、結果的にディズニースタジオでのアニメーション制作が中断され、パークを主眼として運営していくという計画は本作により頓挫したのだった。

・本作は、1894年の短編小説集『ジャングル・ブック』が元になっていて、それをディズニーにより映画化したものであるが、本作のアレンジしたアイデアの数々については(例えば少女がモーグリを村に行くように誘惑するシーンなど)、全てがウォルト・ディズニーによって監修されたものであるらしい(特にこのエンディングについては、当初アニメーターから批判が出ていたものの、仕事に取り組む中で絶賛されるようになったとも言われる)。

・小説版には、本作にはまったく登場してこないバルデオという名のハンターが悪役となり、当初の脚本家のストーリーでは、(当然に)その点がメインの物語として大きく取り上げられた。それによれば、ハンターはシア・カーンを殺そうとしたのだが、代わりにモーグリがシア・カーンを殺すというもの出会った。もっとも、これはウォルトによって火を使ってシア・カーンを倒すという描写に変更された。

・そもそも、本作の原作は、ドラマチックでリアリティの高い小説という評価が世評に下されていた影響もあって、最初ウォルトのもとに届いたコンセプトアートは、どれも暗い絵コンテにドラマチックな造詣が組み合わさったようなものだった。これを見たウォルトは、アニメーション制作スタッフに、原作小説を「捨てる」ように言い、脚本担当を、脚本家からアニメーターに一任したそう。

・最後でも大量に語るが、『バンビ』ではあれだけハンターを衝撃的に描いておきながら、方や本作では一切取り上げずして人間の滑稽さを一発で見出せるという、この采配センスは、天才としか思えない。

・ストーリーの大幅変更に伴うハンター不在についてですが(もう観ている最中からハンターがいつ出てくるか気になって仕方なかったですが結局出てきませんでした)、本作では特に、エンディングで人間の滑稽さが非常にわかりやすく(まさにモーグリと同年代の子供でも伝わるように)描かれるわけですが、このジャングルと人間との対比を活かすためには、モーグリの他に愚かな人間が出てきてしまうと、物語としてジャングルとは全く別の、人間の良し悪しという尺度が新しく備わってしまう故、複雑になってしまいます。なので、やはり個人的にはこの采配は非常に素晴らしいと思いました。何より、最後にモーグリが鼻にしわを寄せるシーン。素で「うわあ」って言ってしまいました。このシーンが好きすぎる。感想で後述します。

・本作も例によって音楽が素晴らしく、特にジャングル描写と初期ディズニーの尺を気にしないミュージカル描写が相まって格別な体験をくれるのだが、当初は黒人ジャズ歌手のレジェンドであるルイ・アームストロングがキング・ルーイの声を演じる予定だった。しかし、アフリカ系であるアームストロングが猿を演じるというアイデアには社内から批判が出たので、ルイ・プリマというジャズ歌手が代わりにキャスティングされることになった。ただでさえこのシーンは最高なのに、アームストロングの声で聞いて、しかも「ルイ(日本語訳だとルーイだが、英訳だとLouieである)」で掛かっているという事実に気づいたら、悶絶してしまった気がする。

・ルイ王が猿から人間になろうとして、「火」の力を欲しがるというのは、19世紀〜20世紀ごろにあった、類人猿ブームの一環により作られた、代表的なサル描写のひとつである。なぜこのような描写があるかと言うと、この頃の人類は、自然に住んでいる猿を非常に恐れていたからだ。1859年にダーウィンの『種の起源』が発刊され、人間が猿の進化系だと言う事実に世界が驚き、その後、探検家のシャイユが1861年「ゴリラは血に飢えた獰猛な生き物だ」というデマを吹聴、そして1887年にエマニュエル・フレミエの彫刻『女を連れ去るゴリラ』が発表されて以降、基本的にゴリラを中心とした類人猿は、野蛮で、人間にとって凶暴であるというイメージが定着して描かれるようになった。

・19世紀の初めに、射殺されたゴリラが展示され大々的にメディアに取り上げられるまで、欧米の人間はサルやゴリラ、ひいては類人猿を見たことすらなかった人が大半である。なので、映画界にとって、類人猿は一種の怖いものとして大人気であった。特に19世紀には、サルと人間の中間を描く『2001年宇宙の旅』(1968)、巨大化したゴリラの暴走を描く『キングコング』(1933)、そして猿映画の決定版『猿の惑星』(1968)シリーズ等々、名作も数多く存在。その中で言うと、本作の猿描写は『猿の惑星』シリーズのように、人間になりたいと渇望する猿たちが、人間を支配するため、人間たちを自分の棲家にさらってきて、さらなる知恵を蓄えると言う、この頃の類人猿へのイメージを直球的に描いている。もっとも、これは禁忌なので、本作でも最後にサルは棲家を思いっきり破壊される形で懲らしめられてしまうのだった。ちなみに、『猿の惑星』シリーズの最新作『猿の惑星/キングダム』(2024)はディズニー配給なのですが、本作のキングルイを見たのであればこちらもぜひご覧ください。ネタバレしませんが非常に良かったです。

・ちなみにルイ王の描写は、後に文化学者によって、人種的ステレオタイプ(アフリカ系アメリカ人を猿として描いている)の代表例として挙げられることとなってしまう。が、少なくともこれまで観てきたウォルト制作の映画において、ディズニーが差別主義を助長したことは一度もないように思う。今回は特に、ジャングルにおいて猿が文化的な進展のために子供を攫いにくると言う恐怖描写(ジャングルにとってはむしろ自然の一環)として非常に進歩的なものと、それがアフリカ系のミュージカルをするという部分が重なっただけなようにも思うし、ミュージカルの音楽は例えば日本の民謡でも、白人のシェイクスピア風でもまったく同じサルの恐怖が、本作では通底して描けていたはずだ。

・『ダンボ』のジム・クロウ同様、本作のキングルイも、むしろそのようなマイノリティに非常に配慮した結果の秀逸なキャラデザインだ。端的に読解不足という可能性はないのだろうか?ウォルトのバランスにより成立していると言うのも否めないのだが、表現が成立しなくなってしまうレベルの批判は誰にとっても不利益なものだろう。

・総評&感想。まずはバルーが最高すぎる。本作は実質バルーの映画であるとすら思うくらい、やはりバルーは良いですね。最近観たジャングルキャラの中だと、『ライオン・キング』(1994)での、ハクナ・マタタ内蔵差分シンバや、ティモンとプンヴァは本当に良くて超良い気分で見ていたのですが、本作は『ライオン・キング』のあの部分をグワッと拡張してお話にしたような良さがありました。バルーが出てからはもうずっと良いですし、バギーラとバルーの距離感、これはもうたまらなく熱いものがありました。バギーラとバルーが肩を組んでジャングルに去って行くシーンで、今年一の号泣です。モーグリくんも超良かった。バギーラ、バルー、鳥の軍団たちに幾度となく命を救われているのに、最後突然現れた女性に半目で見つめられただけで、広大な自然の恩恵を一瞬で吹っ飛ばす様は、まさに人間そのものです(1967年は、まだエコロジーという概念すら黎明期であり、1980年の大阪万博くらいまで人間は自然を完全に無視して開発競争に明け暮れていたので、まさにそれへの皮肉です)。

・ジャングル、未開の地、動物同士の友情、裏切りまくる人間、弄ぶ猿。こんなに端的で素晴らしいメッセージを、この明度で描いてくれるのがウォルトさんなんですよね。後地味に、オオカミの合議体みたいなところでモーグリの処遇を検討していた時に、バギーラが物申したら「よしわかった」みたいな感じでスッと意見が通るところとか、あとゾウの隊列がモーグリを探すときにハーディ隊長を女性の像が「これがあなたの息子だったらどうするの」って叱ってモーグリを探させるところとか、そういう部分が本当にウォルトの良さ全開でいいんですよね。何百回でも言えますが、最後モーグリが皺寄せスマイルをして去った後の「これで良いんだよ」と言って二人で肩を組んでジャングルに消える、これがもう超満点なんですよ.........超良かったです。ジャングルのキャラが全て愛せる。ドツボ。全てが満点!!
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