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チャイルド・プレイのaのネタバレレビュー・内容・結末

チャイルド・プレイ(1988年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

・本作はチャッキーシリーズの記念すべき第1作である。特に本作は1作目から大ヒットを飛ばした作品であり、制作費900万ドルに対し、興行収入が4.4億ドルと、当時のアメリカでメガヒットを生み出した。

・チャッキー人形や本作の原案というのは、1982年から現在に至るまでコレコ社やマテル社等により販売されている「キャベツ畑人形」、『ミステリー・ゾーン』(1959)というテレビドラマに出てくる「トーキング・ティナ」という人形(この人形は『チャッキーの種』の最初でやられるらしい(?))、『恐怖と戦慄の美女』(1975)で出てくるアボリジニ(オーストラリアの先住民族)の人形等々、諸々の人形を掛け合わせて何か出来ないか?とトム・ホランド監督が構想した結果、出来上がっていったデザインらしい。

・全くの余談なのだが、キャベツ畑人形は本国でも事故例が多いぬいぐるみだった。それは、マテル社(バービーを販売している会社)のキャベツ畑人形の一つに「スナックタイム・キッズ」という人形によるもので、彼にプラスチックのフライドポテト与えてあげると自動で開口し食べてくれて、食べたものは彼の体内にあるモーターが巻き込み、最終的に彼が背負っているリュックサックに現れるというおもちゃだ。しかし、子供としては彼の口に指を入れたい。結果、指や自分の髪を口の中のモーターが巻き込んで、ケガをする子供が続出。3歳の子どもの髪の毛が、ドールの口の中に入って抜けなくなり、髪の毛が根元からちぎれて、部分禿げが出来てしまう事故も起きたそう。50万体近くも売れたおもちゃは、全てがリコールの対象となったのだった。

・本作の当初の仮題は、『バッテリーズ・ノット・インクルード』だった。のだが、スティーブン・スピルバーグも同じタイトルの映画を製作していることが判明し、最終的に「チャイルド・プレイ」に落ち着いたらしい!これは非常に共感できて、というのも本作で決定的に印象付けるシーンがまさに「バッテリーズ・ノット・インクルード」なので、既に見せ場が画策されていたというのは凄い。

・今ではホラー映画のアイコンとして名高く君臨するチャッキーシリーズだが、公開当初、MGMの入り口には抗議者が集まり、映画の上映禁止を求め、ニュース中継でその模様が全米に放映されるまでに至った。

・これに限らず、チャッキーシリーズの映画は、今に至るまで常に「子供に暴力を扇動する」として非難されてきたシリーズでもある。代表的なのは、1992年にマンチェスター州のギャングが16歳の少女を殺害した事件で、当時ニュースでは「ギャングのリーダーが「俺はチャッキー、遊ぼうか?(Hi, I'm Chucky.Wanna Play?」と繰り返し彼女に語りかけて殺害した」というショッキングな内容を取り上げた。他にも、1993年に二人の少年が幼児を誘拐した事件では「『チャイルド・プレイ3』の影響」だと報じられたり、2009年の少年同士の暴行事件では、「加害者は『チャイルド・プレイ』を6歳から鑑賞していた」とも報じられるなど、この手の報道と論争には枚挙にいとまがない。一般的にチャッキーシリーズの視聴者が、映画の内容から悪い影響を与えていると類推され、そのイメージが流布されたというイメージはついている。もちろん今では、明確に否定されるステレオタイプだ(そもそもホラー映画は、カウンター・カルチャーの最たる記号として、『エクソシスト』(1970)然り大抵の作品ががやり玉に挙げられてきた)。トム・ホランド監督は、「そもそも心が不安定なだけだ」と、本作から一貫して批判している。

・監督の意見はその通りだし、上のような記事ばかり出てくるので一応書いたものの、作品を見ていればそもそもがくだらない議論なのは明らかだろう。しかし、つい最近まで、ホラー映画の歴史とは常にこの手の論争との戦いの歴史でもあったというのは、視聴する上では見逃せないポイントだ。

・後に取り上げた時に列挙するが、本作の制作を開始した1985年の時点で、すでに2,3作目、および『チャッキーの花嫁』(1998)までのシーンの着想はできていたらしい。たとえば、マギーの死亡シーンは、当初は入浴中に感電死するはずだったのだが、ドン・マンシーニは、より衝撃的でシニカルになるよう、マギーの死を窓から突き落とされるシーンに変更し、代わりに『チャッキーの花嫁』(1998)ではあるキャラクターが感電死するよう描かれている。

・本国では大人気となり、当時からすでにミームと化していた「喋る人形」チャッキーだが、映画の上映時間のうち45分までは、実は何も話していない。ドン・マンシーニはインタビューで、「若きアンディが殺人犯であることを仄めかすには、もっと時間が必要かと思い、当初の脚本ではもっと長く観客を翻弄する予定だった」と語っている(ちなみにこのアイデアは、次作で用いられることとなるらしい!)。

・総評&感想&考察(長めです!)。

・一作目のエポックにつき小ネタは少ないのですが、超面白く観られた作品でした。ホラー映画ではトップレベルに面白かったです。まず、マギーおばあちゃんが死んだという事実をかなり濃密に描いているのが、非常に人間に寄り添って描いていて、非常に好感が持てました。たとえばこれが『死霊館』(2013)であれば、ハイテンポで人を殺していくこと自体に展開がフィーチャーされるので、それはそれでアトラクションとして面白いのですが、対して本作ではマギーの死後母親はちゃんとめちゃくちゃ動揺するし、そこから警察がやってきて「死んだ責任が誰にあるのか」から始まる揺さぶりを、マギーの死だけを介して、15分くらいかけて濃密にしてくれているのです。

・そして、序盤を経て、さらにマギーの死によって決定的になった「チャッキーは生きているのか」についての揺さぶりは、本作は終了するまで徹底して行なっており、そしてそれがまさに、本作の肝の部分になってきているように思います。

・その揺さぶりは、最初のシーンからすでに「この人形喋るんだよ」とアンディが言ってきた場面から始まります。当然、お母さんは子供の言う事だと受け流します。しかし、マギーの死を経て、お母さんには「この息子は最初から”狂っていた”んじゃないか?」という疑念が出るようになってしまう。ここで観客は、実はチャッキーがマギーを殺したことを知っています。しかし!次のシーンでお母さんが、アンディの部屋に耳を傾けるシーンでは、その直前までアンディとチャッキーは互いに発話していたにも関わらず、聞き耳を立てたお母さんには、アンディの声しか聞こえていなかったのです。ここで、アンディにとってのチャッキー(生きている人形)と、お母さんにとってのチャッキー(息子が子供で適当に言っているだけなのか、息子が狂ったのかわからない)の他に、観客にとってのチャッキー(チャッキーは本当に生きているのか、それとも息子(や狂った人)にしか知覚できない存在なのかわからない)という、第三者から見た新たな視点が生まれることになるのです。

・そして、本作ではこのチャッキー像の違いを利用して、終盤にかけてまで徹底的に、本作で起きている事態がどこまでが誰の妄言なのか絶妙なラインを辿っていくため、観客が自然に謎解きを始めると同時に、不安を感じざるを得ない展開に陥っていくのです。たとえば、アンディがマギーおばあちゃんのことをビッチ呼ばわりしたのは、チャッキーから教えてもらったと言っていても、ギリギリあの歳の子供ならインプットをして適当に言いそうなラインだし、そもそも足跡だってアンディ自身が付けられるものでもあります(その後の白い粉の付着だって、そこで描かれている内容までもアンディの幻想だと言われても納得できます)。

・さらには、お母さんのストレスが限界になった時に(ここの長回しもお母さんに移入しやすい演技や尺がきっちり確保されていて、一々すごく良いですね)、電池が入ってないことが判明することでお母さんはチャッキーが「喋っている」と自覚するという決定的なシーンがあるのですが、そこだって観客からしてみれば「母親がストレスでとち狂ってしまったか」と解釈する余地は十分にあります(電池がないから喋れないことと、お母さんが聞こえたというのでは、前者の方が根拠としては明確な以上、観客の自然な思考としてはむしろ前者を信頼することも十分にあるでしょう)。この三者で異なる視点を重層的に描くというのは、なんともクレバーで、古き良きハリウッドという感じがして最高です。

・その後も、警官の殺害をチャッキーが試みるシーンは側から見たら「交通事故」の範疇に収まるっぽいですし、実際にチャッキーが医者を殺すまでのシーンは揺さぶりの極北で、チャッキーが刺したか否かという決定的な部分に限って画角をずらすことで、まだアンディが狂っているという可能性を全然捨てられずにいるというのも、非常に上手なポイントです。ここの緊張感の創出の割に肝心の部分を解き明かさないというテクニカルな作りには、思わず声が出ました。

・その他にも本作では、突然の大爆発という非現実的なショットを中盤あたりに挟むことで、観客に「この先何が起きてもおかしくないよね(見えている画自体の信頼度は低いから、チャッキーの行いはどこまでが真実かは分からないよ)」という確約を黙示的に伝えていますし(これは『死霊館』(2013)の最初にわざわざ犬を殺すという御法度を破ることで、この先の展開の信頼度を意図的に落として不安感を煽るのと似ています)、さらにはブードゥー教の人が殺される場面も、本作で唯一チャッキーと事件を超えて対話できる人がオカルトチックというのは、この物語の真実性をかなり薄めてくれていると思います。終盤の怒涛のアクションの後、刑事が「誰が信じてくれるかな」と言い放つように、あれだけのアクションをした後も、特定の数人を除けばチャッキーが脅威であるということはまったく伝わらず、チャッキーが真にいるのだという決定的なシーンがないのです。

・つまり、本作の登場人物は、子供はチャッキーから、母親は子供から、そして警官は母親から、というように、チャッキーが真にいたとする人々による「チャッキー物語」から、(勝手に)自分の身に起きた出来事を重ねて、次の人へと紡いでいっているのです。これは端的に、「神話(厳密には、経典、聖書)や物語」と「解釈」の構造そのものです。経典や聖書というのは、読めば分かる通り、誰々が何をしてどういう結果になったとか、意外と淡白に事実が列挙されているのであって、その書物自体には解釈というのはどこにも内包されていません。しかし、それを他人や教会から、この「神話」や「物語」にはこういう意味や真理、正義があるんだよ、という解釈を、その受け手が(勝手に)見出すことによって、それは「物語」ではなく、真理、価値観、教えへと変容していきます。

・その最たるものは、南無阿弥陀仏や十字架で、十字架に秘められた神話を感じ取れば、簡単に(勝手に)真理に到達できるのは、つまり十字架が、極端にシンプルで淡白かつ即物的な「物語」であるからなのです。本作でチャッキーという即物的なマスコットを通じて、人々が(勝手に)「チャッキーが殺した」と明言するのは、チャッキーという即物的な「ぬいぐるみ」=「物語」の一形態から産まれる解釈が、人々を介して何重にも行われたからなのだ、と思いました。それを最も象徴するのが、呪い師に限ってマギー事件の第三者が殺されるところにあると思っていて、やはりあそこで「第三者が殺されるとしても、それはチャッキーの物語を突き詰め(て、おまけに呪術に精通している解釈の余地が広い聖職者に限っ)ている人間に限る」と明示された時に、本作で深く洞察された神話と解釈についてはっきりとし、非常に驚いたのでした。

・もちろんこれはあくまで本作を観た感想なので、多分次作以降は初っ端から堂々と目の前に登場して殺しまくる殺人人形になるのでしょう。しかし、本作内において、存在しているのか否かというリアリティラインを保持し、終始観客や個々の登場人物をひたすら揺さぶり続けたチャッキーという「ぬいぐるみ」は、背後に神が存在している(ように解釈できる)十字架に、そっくりそのまま置き換えられる構造を有しているのです。

・エンタメとしてミステリーに溢れていて面白い作品でしたし、さらにそこには人形の存在というものへの本質的な理解と物語性を帯びているのを感じ、これは超クレバーで面白い映画に出会ってしまいました。チャッキーは全て面白いらしいので、最新作のテレビシリーズ『チャッキー』(2022)に追いつきたいです(こちらがとにかく評判が良いという話を聞きます)。チャッキー最高!!!しかし最近は本作といい『ポカホンタス』(1996)といい『フュリオサ』(2024)(マッドマックスの最新作)といい、極端に知的水準の高い物語映画にいきなり出会えて嬉しいなあ。
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