この世のあらゆる出来事を有象無象のように蹂躙しながらも、前衛的な傲慢さが希薄な不思議さがあります。
アレハンドロ・ホドロフスキー『ホーリー・マウンテン』
映画も100年以上の歴史を持つのなら、捉えてきた画面は既に森羅万象全てに及ぶだろうと誰しもが思います。
ですが、100年程度で全てが捉えられる程、(この世)が生易しいものでない事もまた、私たちは映画から見せられたのです。
遡ること1967年、ジャック・タチの『プレイタイム』と1973年、アレハンドロ・ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』にて、既に、知的な詮索でまごまごしていたら置いてきぼりをくらいかねない勢いで、(この世)というものが、今までだれも見た事のない風景として描かれていた事実に愕然とします。
メキシコシティと思われる、とある街でホドロフスキー自身が演じる錬金術師が着飾った二人の女を裸にし、頭を剃るという開幕から、全ては見たことないものだらけ。
キリストまんまの風貌をした一人の盗賊が、スラム街で行き倒れて、手足のない小人や現地人の子供達らに十字架に磔にされ、独裁政権の支配にある街の至る所で軍隊が闊歩し、虐殺や処刑が行われていく。
処刑された人々の体からは何故、鳥が飛び出すのか?
パレードで何故、皮を剥がれた犬の死体が掲げられるのか?
そもそも騒然としながらも、人々が何故、白昼堂々、公然とセックスに興じるのか?
ヒキガエル何故、驚くほど美しく着飾り、サーカス興行が出来るのか?
商品化されたキリスト磔刑像が飛ぶように売れるのは何故か?
十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩くキリスト似非盗賊が売春婦の一団とすれちがっただけで、猿を連れたそのうち一人の娼婦に興味を持たれるのは何故か?
何故キリスト像は半壊されて風船で空に飛ばされていくのか?
極めつけは、交尾という概念を擬人化したようなロボットは誰の為のものなのか?
キリスト似非盗賊はナイフをふりかざして錬金術師に襲いかかりますが、錬金術師の術によって体の動きを止められ、召使いの女と共に彼の体にできた腫瘍を切り裂かれ、中から腐った魚が取り出されます。
その時、同時に迸る血の色が赤ではなくて何故か青い。
全ては長年、不老不死を手に入れたいと考えている錬金術師が、『聖なる山=ホーリー・マウンテン』に住んでいるという、世界を司る9人の賢者達から不老不死の秘術を奪おうという企てに起因するものか?
いえ、違います。
錬金術師が残った8人に説く、旅を通して知った不老不死よりも大切な現実ゆえか?
まさか、そうでもありますまい。
この作品の監督でもある錬金術師の合図で、突如、カメラがバックし、それまでの虚々実々が露わになった時、ホドロフスキーが私たちに堂々と語る、
(これ全ては映画だから)
に他ならないからです。
星の数ほどの顰蹙を全身で受け止めるような映画でありながら、前衛的な傲慢さが希薄になっていく秘密がここにある気がします。