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極道の妻(おんな)たち 赫い絆のニューランドのレビュー・感想・評価

3.7
✔️『極道の妻たち 赫い絆 』(3.7p )及び『女番長 玉突き遊び 』(3.6p)『好色元禄(秘)物語』(4.6p)▶️▶️

関本郁夫は、’70年代半ばから十年位か個人的なヒーローで、邦画の年間ベストテンの最上位辺にも三度くらい投票してきた。80年代前半に日活作品を観て何も引っ掛かってこないのがショックでバタッと観るのを止めた(ゴジの『連合赤軍』深作の『実録共産党』熊井の『宴のあと』小林正の『敦煌』と並ぶ、当時最大級期待の『六連発愚連隊』も暗礁に乗り上げ)。以降引退されるまで1本も観てない。自伝が出版されたが、高価だし本を読む習慣もないので買ってない。そこで当然自作のベストは、『好色元禄~』辺りかと思ったが、本作が推されてるらしい。関本の映画作家生活後半は見るべきものはないと想ってたので、もしそうならファンとして、傑作の数が増えて嬉しいことだ。
『~赤い絆』。一部お囃子みたいなのも入るが、全編流れ続ける、題材に沿わない懐かしく物悲しい音楽が作品に線を通す。木村大作のカメラは、装置美術を含め、少しクリア過ぎたり統一度に欠けるとは言え、構図·厚み·風格、あまりカメラを動かさぬ静謐さ、『ゴッドファーザー』に比肩するものだ。しかしキャラ達が妙にどれも浮わついていて、中心となる岩下もアップになると男らを色香に迷わす年齢でもないな、となり話自体が現実的に成立しない。岩下自身も演技に拠り所乏しく、画面から浮きがち。しかし、これらが全て映画の茶番ならば、あらゆる権威や映画のパターンを破壊する、思い切った爽快な作ともなる、ラストで一気に作風とどんでん返しが一体化して、痺れるような魅力を放つ。基本、カメラは時にゆっくり寄る、乱闘時に手持ち揺れながら尾いてくが、他のフォローや横へ、ら乱暴さはなく、ピタッと極ってく。ラスト辺の『カジノ』的車の爆破や二大殺戮も、スローらはあっても、カメラというより、しつこいまでのリアクションと図が映える。望遠で抜いた切返し多用も終盤に限られ、どんでんや仰俯瞰あれど極端な図はなく、まず整った力と美の落ち着き·締めがある。
生まれた時から初代組長のひとり娘として、骨の髄からの極道の世界が染み込んだ40女(当時50代半ばの岩下では無理ある)は、同時に女の色香·美貌の持主。二代目を継いだ夫も、恋と組長狙い絡みからの縁で、対立組員迄も惹きつける。夫襲名の宴の裏で、襲われ· 相手に大きな傷を負わせ、2組の揉合いと成るを、駆け付けた夫が敵の中心者を撃ち鎮まる。妻と·夫の身代りNo.2が収監される。妻は夫の未来の為、獄中で離婚し、出所後も堅気として、連絡絶つ。離れた場でスーパーに働いてく。しかし、「姐さん」を慕う、極道の妻たちの気持ちは、不安定·迷い増す中、寧ろ強まり、秘かに世話する若手組員らも彼女に敬意を感じ直す。ホステス上がりを新しい妻にした夫も妻への想いは変わらぬ。一方、銀行から内密にドリームランド建設予定地買収を持ち掛けられた夫は、揉め事無しが条件で対抗組にいいシマを譲ったり、予定地内の旧親分の土地の交渉に入る。しかし出所後のNo.2の保全する物として断られる。真の極道の妻になりたく、旧組長殺害する、二代目の新妻。それでも先妻は折れぬも、やっと応ず。が、首相交代で国の方針逆にで話はご破算に。初代を超えたく大博打に出て失敗の二代目は、やくざに飽きたと称し、まだ真相バレてない土地とシマを対抗組に比較的安価で売り、組を解散·皆を路頭に迷わす。脱獄し狙ってきたN o.2と相討ち死と見せてアメリカ脱出·再起へ向かう。その夫と、その前に·組を吸収した対抗組を、一斉抹殺の罠にかけ、極道に戻り、逮捕の先妻。
動機、状況、展開、信念、凡てに弱く茶番劇続きのような展開だが、音楽·撮影のかりそめの気品、そして「好きな男の為に、(対立者の)殺しも厭わぬは、まだ堅気。本当の極道は筋を通す為なら、好きな男も殺す」といい放ち岩下の流石の振舞いと覚悟の貫きの華には、唸らされ、不思議な美の緊張の張りつめを感じさせる作。
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が、欠損だらけでも、若々しい、大胆な筆致の方がやはり魅力的だ。『~玉突き~』。’70年代の関本作品は1本を除いて一応制覇していたが、実質処女作の本作も、シナリオの弱体をカバーして余りある活力に満ちている。
粒子の粗さや暗い汚れさえ、動感あふれる立体感の逐次造型·変化に寄与している。冒頭のスケバンのタイマン勝負程ではないが、カメラは常に激しく揺れ動き·傾き歪み(体技は寧ろ要求度合いが強まり極限、リアクションカット切り替えも全く隙がない)、寄りめでも仰俯瞰の威厳が内から付き、切返しやトゥショットが時おり極り、ローや奥に延びる橋桁·俯瞰空中からの攻撃らの立体感が張り出す、画面スチル化や弾け跳ねる繰り出し祭感·3段重ね突きのとどめ刺しらが踊り出し、血や暗さにまみれた死体の重さ·存在感も一方を占める、各人の表情アップはドラマ越えて本物の重みと内からの輝きを増してく。スケバンは、武士道みたく、変にどっしり中央と目指す先にあり続ける、変な重厚感と意気、内包。「最期に(余裕のみから)笑うものの勝ち。私が負けたのは、心の傷。あんたはマブのスケバン、私はズベ公でしかない」「(得たダイヤを全て死者にたむけ)スケバンには未来も過去もない。あるは今だけ」闇雲でかつ理想を内から育ててく 筆致は 、新人離れはしている。
敵対する女子不良グループの、トップと同士のタイマン勝負で、卑劣な手に逆転で勝っての、少年院を勤めての出所で戻ると、有力ヤクザの傘下に入った敵グループの天下で、自分の下の者らはバラバラになっていた。真面目に働いたり、家庭を持つなりしてるが、着いてくる者らは集まりくる。ヤクザが巣食ってもいる、会社が倒産と見せかけ、ダイヤに資産を変えさせてのトンズラ、首脳陣の計画が漏れ、ヤクザおよび傘下、そこから抜け出た自由な心意気の男を加えた、ヒロインの再結集グループが、闇社会で張り合いだす。様々に無惨な女らの死を経て、敵を倒し 生き方を恥じぬヒロインら。シナリオの弱さが部分部分の張りと意気、身体ごと体当たりと広い理想が、置き換わってゆく、処女作として、スピルバーグ.イーストウッド·タランティーノ·ノーランら名だたる強者らのそれを上回る秀作だと思う。
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『~元禄~』。この監督の特集ということで、既に引退の監督がゲストとして来場·登壇されたが、細部まで何故か覚えてる思い出を披露しながら、自作ながら 作品に、思いがけず涙したという、これまでになかった事を恥じていらした。正直、若くて監督自身も当時把握出来なかった作品の力であると想う。映画100年の頃から、映画史上の100本を出し合う事があるが、この作品は外せない。1位から100位まで差なんてない、ということは、映画史上の最高傑作(の1本)であると思い続けてる。スコープの両端が欠ける、昭和館の地下で初めて観たのは、封切りして少し後で、それ程のや鮮やかな天才遭遇のショック(、併せて思わぬ形でのアンヌ隊員との再会にも~10代だったせいもあり·『同棲~』も『忘八~』も未見だった)だったは覚えてる。今回はひし美さん自らが費用負担してのニュープリントらしく、ヒルや湿気で誰もがでていったという、半ば沼地のWヒロインの家のセットの低予算ながら、美術·小道具·夕光らの照明厚み、の真の表現土壌部の、重厚と軽さ両面リッチ·無手勝手流の生命と青春の輝きには、監督以上に感動し直す。監督自身大幅に手を加えシナリオの呼吸する如くの、完璧さも上記2本に反して完璧でもあり、これも若き陽造の手腕がより拡張されてる。
竹林の林立感の望遠の退きと寄り(足変も)での戯れの追い掛け(交互パン)から倒れ込んでよりのロー·ポジらへの置き方(自由なズームとパンが活きる)、住職を騙し寺を去る所の承知·待つ者の背ごし縦図の入るのの導き、それは湿地に囲まれた実家で思わぬも自然な縦図で新たな人間入る緊張が示される、男女の絡みも見せ物としての女体というより·その本源的な肌への親しみとして激しい揺れなどあっても親しみとしての裸体への愛おしさが描かれる。殺人や死に絡む揉み合いでも、カメラの動きや構図の切替えの動きの激しさの延長線上というより、明確に行き着くポイントが導かれる。具象であろうと、宗教的抽象であろうて、ポイントが絞りこまれ、その分のロケハン·セット·列の人の数·家具·水や草の造り込み·光線の染めこみ、に妥協はない。決してリッチではない低予算作だが、描くべき事、それが醸しだす形以上への到達、を実現しつくしてる。適度的確な俯瞰め退き図も納得のは入方で、全体は間をおいては繰り返される音楽の為か、青春·その名残を惜しむような愛おしさが貫いてるものが、いつしか全体の無常観を上回ってくる、観てる側の尻に火を付けるような身近な渦巻きが知れず巻いてきてる。
階級·環境共に差別というより、世界の支配構造の最末端にあるを、引き受け、内か外の充実のバネにしようとしている姉妹の物語だが、当初は「無限菩薩」「生き仏」に到達する妹が主演だったらしい。無人空間に至っても、出自からのヒルは居続ける、現世とどこか繋がってる。妹は決して現実の体勢やごまかし柔げに流す側に馴染まず、世界と自己をおずおずと律する姿勢を持ち続けるが、なりわいに足を引っ張られることのない、純粋に底知れぬ快楽に心ならず届き、罪自体も不確か侭に深まり、贖罪か宇宙形成か、捉え処も無くなってくる、底はかか·呆気かの可笑しさ·それを超えたキャラの驕らぬ慎ましさへの共感がでてくる。闇か単色のバックも見事に包み込んでくる。
しかし、それを定着し、相対化し得たのは、あくまで現実的で前向きで、あらゆる消極否定的行動を表立たずも否定したような、周りを上手くだます以上に有無を言わせずどころか笑みを交わし会える姉の存在の、元々作品のサブだったのが、同等を越えて入れ替わった存在の、全てを受けて全てを伸ばし肯定するあり方によってだろう。この作における、ひし美の対峙·大股疾走·脱ぎ見せ·絡み倒し·普段の風情、は全て本人の内か、作品の仕上げ過程か、綿密·正確に作り上げられたもので、代えられない意志や意気や世界への和みが行き渡り、周りを感化する程に沸き立ってる。本作のひし美、『~浮世風呂』のひろみ摩耶、『天使~』の結城しのぶ、年間最高の女優演技と言えた。
元禄年間か、埋め立て地の沼と湿気でヒルらも不衛生な、誰もが去って一軒だけとなったうちに、職人の老父の下、対照的生き方の姉妹。この地を恥じずバネに出て開花すべく、寺住み込みの和尚の世話を孕んだと去り、ろう絡しておいた呉服問屋の妻に収まらんとする姉。別の由緒ある嫁が決まると、(新妻別れさせる細工を他人が代わり復讐を諌め)再度ろう絡、相手もその気になると、妻の座は大旦那の後妻という、より上位へ。迎えた婿の職人が嵌めて一夜他人に売って金を得たに、逆上の純で一途の妹は、誤って刺し、姉の指示で遺体処理も、先人の話を聞き·倣って、只で千人の男と関係する供養を始め、苦痛の筈が快楽と身体の熟しを極め、千人目が気づかずも生きてた夫で、感と技の極まりで今度こそ腹上で死に至らす。今度は神憑り的万人斬りを祈願果たし始めてく。
この全てを見て周知、係わってたのが、寺の若い小坊主で、会うのも最期かと言った後、これまでの彼の細工をなじった後、「知ってるで、皮かむりの目でしか見れてない、寺もお辞め」と女の身体を与える姉。一瞬で果てるも、「女の身体が、こんないいものとは。これからは、飛翔して、世のからくりをあばく途へ」と西鶏から西鶴改名を宣す小坊主。既に背を向け去りつつある姉に、「好きだぁ、お夏さん」と笑みを生まれさせ、STOP。
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