人類遺産のつながりで知り鑑賞。
our daily bread.
調べなければいつものパンぐらいに訳してしまう英語力の自分だけど、我らの日々の糧、とでもなるのかな。
作品はそんな受け手の語学力には依存しない映像と環境音、話し声のみで字幕もBGMもない世界。
自分がふだん口にしている、穀物、野菜、動物たちがいわゆる食べ物に変換されていく様を淡々と描いていく。
臓物、剥ぎ取られた皮…衛生的なシルバー基調の漂白され尽くした空間の中、追いやられ、処理され、ベルトコンベアに乗せられたいきもの達が機械的に加工されていく。
裏腹に作業に従事する人々のシリアルやパンといったモノを淡々とたいらげる食事のシーン、これもなぜか印象的だった。
よく見慣れた牛や豚、鳥。
よく見慣れたステーキやトンカツやフライドチキン。
目を覆いたくなるようないのちを奪うためのイニシエーションを目の当たりにしながらも、何かを境にまた慣れ親しんだたべものに成り代わっていく。
この中間に存在する過程、姿かたち、そんなものがフラットに映し出されていく時間は自問自答しかないのだけれど、それだけにダイレクトにも伝わってきて、重苦しくも有意義なひと時だった。
自分の窮地を察し静かに抗う牛、眉間を撃ち抜かれ断末魔をあげるでもなく生き絶える牛、吊し上げられ血液のみならず体内の液体を垂れ流す牛肉。
吊し上げられ垂れ流す血液と体液を目の当たりにして、あそこのステーキが美味いやらトンカツが絶品やらの会話が、こちらの都合だけでいのちを差し出すことを余儀なくされたいきものたちに対して不謹慎な気がしてなんとも恥ずかしくなった。
宗教に照らさずともまさに日々の糧に感謝せねばと、またまた頭では思いながら、色んないのちを消費していく自分に何とも言えない焦燥感だけは宿った気がする。
いのちを糧に生きていることは頭では分かっているし、その過程を担ってくれている人たちがいることに感謝するのだけれど、ここまでシステム化され大量に食物を生産し続けている産業形態とこれらが均等には行き届かないグローバルな社会形態、今も傍に当たり前のように並んでいる、自然派嗜好を売りにした食べ物と、必要以上に満腹になる自分にいつもながらも疑念が生じた。