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戦争と平和のニューランドのレビュー・感想・評価

戦争と平和(1919年製作の映画)
4.1
☑️『戦争と平和(ガンス)』及び『愛の花』『肉体と悪魔』▶️▶️
この映画は『私は弾劾する』とも紹介されてる映画だと思うが、どちらにしても1910年代の『イントレランス』と並ぶ最大の野心作とされてた作品である。’70年代に『鉄路の白薔薇』、’80年代に『ナポレオン』という映画史上有数の作品を観ることが出来たが本作だけは連続上映でなく、何年に1日だけ思い出したようにやるだけだったので、勤め歴ない若い人が番組編成をやる時代にもなって、予告も直前で物理的に観れないでいた。しかし、一方では’20年代には押しも押されぬTOPとなるこの作家も流石にこの時代はどうかという懸念も持ち続けていた。スティルレルやフィヤードとは流石に差があったのではないかと思ってた。結論から言うと先の二人と同列にいて、この時点で既に完全に映画技法・話法ではグリフィスを追い抜いてる。場面を並列化し競わせて進行するより手立てのないグリフィスに対し、ひとつの場面に異要素を集約し深化突き抜けさせる手腕を完全に手中にしている。(グリフィスの’20『愛の花』は、知られぬ自然・風俗のドキュメント、花の詩的捉え、一部セットを出た水中撮影の掛け替えのない美と角度、の混入した不思議なテイストの作だが、場面の並列葛藤、場面の寄り・その対応~浅い切返し~・ときにどんでん・闇バックCU・急角度・らによる再細場面化に留まってる、当たり前だが。ポジション自体は丁寧・やさしくこまめにズラし押さえ、ヒロインの見掛けを越えた頼もしい圧倒的動き回りには好感抱くしかないのだが、隣接の近場からの働きかけも受ける場とは異質で隔絶された間があるように思えるロス感が存在してる。グリフィスは最後まで、せいぜい90゚近くまでで、180゚近い切返しは、ほぼないか、あっても有効に機能してなかったと思う。それでも前段なく、いきなり手前からと右からとの1カット内・父娘再会は凄い。サイレント黄金期のスケール・構図・カメラワーク・壮大トリック・逆光潰れ平気、の飾り立て見事も、同性愛に腰が引けてる以前にドラマのカット組立てが明らかにユルい、40数年ぶりに残り半分も観た『肉体と悪魔』とはモノが違うも。) 自家と 色ガラスの入った隣家の窓ごしの人妻の元恋人との交感など恐ろしいほどの密度・可能性だ。
今回の版は三面スクリーンは用いられてなかったが、軍の全面協力を受けたスケール・物量・広大かつ緻密正確さ・破壊のリアルや、骸骨たちの再三の舞踏・梟・甦る多大の死者らの姿・それが乗り移った狂人による生き残り利用してる銃後の者への告発・の象徴性は今でも圧倒されるしかない。とくに’90年代の『~ライアン』と同等の、死と変わらぬインパクトの爆風での転がりかた・隣兵の一瞬土穴化は肝が縮み上がった。それ以前のひとりの女をめぐる真の愛の所在の追求や妄想・暴力性の巻き起こす、家族を巻き込んでの確執・陰謀の、2~5個人間のドラマの密度の複雑さ・陰湿さも凄い。それが戦場で物理的・倫理的に戦友化して自己犠牲に変質してくのも、無理なく興味深い。
しかし、軍隊という組織自体の不条理・反正義の書き込みは不徹底で個人は結構のさばり得てる。そのいきなり・不意の命の奪われは確かに力ある描写なわけだが、残した家庭に調和・平和を戻せたら安眠できるというものか。問題の立てかたが少しズレてる気もする。それでも、この圧倒的人智を超えた暴力に、自然の平穏・不変は対置されるのではなく、天の存在として非難されるべき、と自らの詩を置き直す、正気を戻した主人公の姿勢には感動させられるが。
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