キートン作品の中でも支離滅裂な映画だった笑。いつもなら、ある一定の事柄とキートンの間の葛藤やらやりとりがあるが、まるで一貫性がない。一応オチが丸く収めようとしている感じはあるが、無理やりだった気もする。
それよりも、今作品の支離滅裂さは、あのフェリーニの「女の都」ととても似ている!この夢を見るかのような物語の繋がりの唐突さだけではない。それは男と女のやりとりの滑稽さからも現れている。今作品のキートンは、女性なら誰でもいいんかと思うほど通りすがりの女性にアタックする。「女の都」のマルチェロさながらに。つまりこれは男性が見た女性の夢の物語なのだ。キートンは今作中やたらと銃を持ち、さながらフロイトの夢診断に従えば男性の象徴的な存在であるかのように思える。対して女性の描かれ方は、どこか一般的な女性像とはズレており、怪力で雄牛をねじ伏せたり、熱湯の紅茶を飲んだり、どこか異常なタフさを持つ。キートンはフロイトのいう去勢恐怖をここで感じ、どの女性も拒むのだ。そしてラストの空中浮遊。ある意味、強引だとも取れるが、全てが夢物語だった可能性がここで示唆されているとも取れる。
これは単純なファンタジーというより、無意識的に作られた夢の話なのかもしれないのだ。キートンが、もちろん夢診断に乗っ取ってつくったとは思えない。またフェリーニも、フロイトこそ意識化にあったかもしれないがキートンの今作からインスピレーションを得たとも思えない(彼はチャップリン好きで、キートンに対する言及は自分の知る限り無い)。これはどちらも、男性の夢が根底にある。特にラストの類似には驚いた。どちらも気球に乗って浮遊するという全く同じシチュエーション!これはフェリーニが真似したというより、精神分析的な面において知らず知らずに類似したのだ。前回見た「バベットの晩餐会」とケン・ラッセルの作品の夢の描写が非常に類似しているのは、宗教的な恐怖は、ある同じ視覚的な恐怖として共通していると仮定した。それは今作品と「女の都」にも通づる仮定となりそうだ。そもそも、フロイトの夢診断のように、なぜ違う個体が、夢の中では同じ象徴を抱くのだろうか。この人間の不思議な性質が、ある意味映画という機械によって拡大されたといっても過言ではない。映画とは、同じ暗闇で見る夢なのだ!まぁ今作品は冒頭のビックリハウスに象徴されるような、ただ唐突さやおどかすことを狙い続けただけかもしれないが。
ビックリハウスって、あえて人の感覚を揺さぶる仕掛けがあるアトラクションだが、あれは自分が間違っているのか、状況が変なのか人間が理解できなくなるのをうまいこと利用している。映画も、最終的に自分の視覚や感覚記憶力がたよりで、映画の”全て”を記憶して正しいと言い切ることはできない。ある意味、映画とはこのビックリハウスのようなものだよと、メタ的なことを言っていたのかも?