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また逢う日までの教授のレビュー・感想・評価

また逢う日まで(1950年製作の映画)
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映画に興味を持ってから、ずっと観たいと思いながら観る機会がなく「名作」の誉れも高い作品にも関わらず観ることができていなかった。
この度、U-NEXTで配信されて鑑賞。

1950年代の日本映画、古い日本映画のイメージにある「辛気臭さ」とはまるで違う「軟派」な作劇に驚く。
しかし本作の中心的な要素になる「メロドラマ」こそ、作中の不穏な空気感として迫り来る「戦争」であったり「醸成される空気」であったり、社会の空気に順応した人々の不寛容さへの対抗する手段として示唆される。

主人公の三郎(岡田英次)は貴族的と揶揄されるような富裕層であること。
典型的な家父長制を象徴する父親(滝沢修)であったり変節して軍国主義者を邁進する兄の二郎(河野秋武)であったり。
義姉の正子(風見章子)のお腹の子の処遇についてかなりえげつないやり取りなどが描かれていたり。
三郎と螢子(久我美子)のライトな恋愛模様や、少し間の抜けた三郎のモノローグなどはよりその現実の閉塞感を際立たせている。

「死」が常に漂いながら、戦死した学友の「遺稿集」を纏める会話にも、それぞれの「個」が示され、そしてそれらも戦争に巻き込まれることが前提となっていて、とにかく悲しい。

有名なガラス越しのキスシーンについては、割と冒頭に出てきて面食らったけれど、名作、あるいは傑作の冠以上に、作品として実に必然を高めた切ないシーンで美しい。

そして「戦争」という「個人の人生の破壊行為」に抗するものとして、恋愛だけでなく「芸術」の力も示唆される。
先に述べた「遺稿集」や、談笑や喧嘩の際にも奏でられる音楽であったり、螢子の描いた「食べていくための絵」についての言及など、硬直した世界に対して、いかに「軟弱」と揶揄される行為が価値のあることかを高らかに示している。

悲しいのは、戦争こそ起きていなくても。
まさに「戦前」としか言いようのない不気味な空気の中で生きている現代の日本で、より本作の価値が高まってしまっていること。
感情の爆発こそが、生命力の源泉であり、それは恋愛に限らずかもしれないけれども、愛について率直であることが生きることに繋がると本作は教えてくれる。
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