ふたりのベロニカの作品情報・感想・評価・動画配信

『ふたりのベロニカ』に投稿された感想・評価

卵

卵の感想・評価

5.0
初めて画面の良さで映画を評価したくなった。陽光の使い方がうますぎる
Yuta

Yutaの感想・評価

3.6
終始ゆらゆらと美しい。設定はありがち(それで構わないけど)。
いかにも男の監督が撮る妄想臭い映画。でも三部作も見てみようと思う。
ジウン

ジウンの感想・評価

5.0
光使って会話を始めた、、、
はわわわわ

ベルイマンがチラチラしてる
主役の女優さんがとても綺麗で、世界観や演出もとてもおしゃれなんだけど、、、単なるミステリアスなファッションムービーで終わってしまった。この筋書きならば、もうちょっと話としての面白さがほしい。

2022#167

同じ日の同じ時刻に生まれ、同じ名前と顔を持つ2人の女性の幻想的なラブ・ストーリー。

ポーランドとフランスに、お互いに名前・顔・音楽の才能までもが同じベロニカという二人の女性がいた。ある日ポーランドのベロニカが舞台の上で倒れ死んでしまう一方、フランスのベロニカは情熱的な恋人と出会い、やがて偶然からもう一人のベロニカの存在に気付く。彼女はポーランドへ旅立つが…。

音楽が映画を引っ張ってるな。
感傷と哀切の極致といった様相を呈していて胸焼けしそう。「可憐で神聖な女性が運命に翻弄される姿こそが至高」的な、(歪んだとまでは言わないものの)いささか身勝手な男性制作者目線の表現・描写を感じる部分も多く、正直ついていくのがしんどかった。
悠

悠の感想・評価

3.4
吸い込まれるような映像美と主役の美貌に見惚れてしまう作品。ベルイマンやタルコフスキーを思わせる難解な内容で、一度観ただけでは理解できず、様々な解説を読んでようやく腑に落ちました。伏線の凝り方にも大変驚かされました。
lente

lenteの感想・評価

4.5
女性というのは男性の僕から見るとほんとうに不思議な生き物で、同じ人格を持ち続けるということは、たぶんほとんどないのではないだろうか。同一性があるとするなら、ずっと女であり続けるということしかない。女という中心部があり、年齢や環境などにより万華鏡のように移ろいゆくようなところがある。

男にしてみればその様子を見ていい女と嬉しかったり、わるい女と恨んだり。けれど彼女たちにしてみれば、そうした男の当惑は何のことか分からないところがあるように思います。

だってそれは違うもの。

これまで僕が見つめてきた女性性の中心には、そうした直感がはっきりとあるように思います。この直感の前ではどんな理屈も倫理も、あるときには人格ですら何の意味も持たない。そして彼女たちは万華鏡の筒のようなものを回転させていく。

そして強く直感的に思うこととして、性別を問わず優れた表現者はみな、そうした女性性に近い場所にまで降りていくということです。

監督としてのキェシロフスキにとって、女優としてのイレーヌ・ジャコブに出会うということは、その中心部に触れられることだったのではないか。彼がファインダーから彼女を見つめたとき、彼女から彼は見つめ返された。彼女のまなざしは彼の中心部に触れた。

もしかするとジャン=リュック・ゴダールにとってのアンナ・カリーナのような位置を、イレーヌ・ジャコブはキェシロフスキのなかで占めていたのかもしれない。

ですからキェシロフスキが『ふたりのベロニカ』の着想を、どのようにして得たのかは知りませんが(と言いながらもイングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ』であることを僕は知識として知っています。けれどそんな知識にどれほどの意味があるだろう?)、もしかするとその見つめ返されたまなざしによって、ドッペルゲンガーのような2重性が現れたのはキェシロフスキのほうだったのではないか。

僕にはそんなふうに思えてなりません。



ポーランドとフランスのそれぞれの場所で、1966年11月23日という時を同じくして瓜二つの女の子が生まれる。どちらもベロニカと名づけられ、どちらも音楽家を目指した。心臓病を抱えていることや、服装の趣味(黒と赤の組み合わせ)や、こまやかな癖(下まつ毛をリングでなぞる)などもまったく同じ。

けれどある日ポーランドのベロニカは心臓に負担をかけ舞台上で亡くなり、そのことを霊感のように受けたフランスのベロニカは音楽家の道をあきらめ教師となる。ポーランドのベロニカは死に、フランスのベロニカは生きた。

2人の出会いはただ1度のみ、フランスのベロニカがポーランドを訪れたとき、ポーランドのベロニカが彼女を見ることによって、またフランスのベロニカが撮った写真のなかにポーランドのベロニカが写されていたことによって果たされる。つまり、まなざしを交差させていることになります。

ドッペルゲンガーと言えばそうなるでしょうし、21世紀に入ってから多く作られるようになったシュレーディンガーの猫のような量子論的な二重存在と言えばそうなるだろうと思います。けれどモチーフ(素材)がたとえそうであったとしても、主題(テーマ)はそのことを描いたわけではない。キェシロフスキ作品の核心に触れた人であれば、おそらくこんなふうに思うのではないだろうか。

存在することそれ自身が宿す哀しみ。

そうであったということは、そうでなかったということ含む。同様に、そうでなかったということは、そうであったということを含む。この感覚は何も量子論的な世界をまたずとも、きっと誰もが知っているもののように思えます。ミラン・クンデラ(1929年-)が『存在の耐えられない軽さ』で描いた運命論的な「重さ」と偶然性による「軽さ」の問題もまた、そうした存在論的な感覚をテーマとしています。

見つめられるということは、見つめられないということを含む。出会うということは、出会わないということを含む。キェシロフスキの素晴らしさはそうした存在論的なテーマを、細やかな映像のなかに息づかせている点のようにいつも思います。

たとえば列車に乗ったポーランドのベロニカが、ガラス玉のようなスマートボールを透かし見るショットがあります。その球体には街並みが反転しながら映り込んでいる。反転した街並みは、そうであること/そうでないことの同時存在を直感的に僕たちに伝えてきます。

キェシロフスキはガラスや鏡などでこうしたショットをよく撮る人ですが、それが映像的な遊びに終わらず、この世界を満たす偶然や運命や神秘などを通して、人を存在論的な問いへと向かわせた何かへと必ず昇華させます。またそうした感覚は、黄金色を基調としながら赤や緑に染まる色彩にも表れています。

フランスのベロニカの元に(ポーランドのベロニカが楽譜を綴(と)じるために使っていた)紐が差出人不明で届けられるシーンからもまた、神秘を通して描かれた、存在することそれ自身の哀しみを感じます。室内空間を背に開封した紐を眺めるベロニカのショットの美しさには、ため息さえ止まってしまう。キェシロフスキにとっての神秘とは、おそらくミラン・クンデラの言う運命と偶然をつなぐものだったように思います。

そしてフランスのベロニカが出会う人形師のアレクサンドル・ファブリは『トリコロール/赤の愛』の元判事ジョゼフと同様に、キェシロフスキの分身のように感じます。彼の人形劇はポーランドのベロニカの運命を思わせるものであり、また同時にポーランドで映画を撮ってきた彼自身をきっと表してもいる。

つまり人形師がフランスのベロニカと出会うということは、監督キェシロフスキが女優イレーヌ・ジャコブに出会ったことと重なっています。カフェから聞こえる音をカセットテープに吹き込んで彼女の元へ送る人形師の行為は、どこかロベール・ブレッソン『白夜』(1971年)を思わせながらも、万華鏡を回転させながら作品を撮ってきた監督の行為にほとんど等しい。

あなたには分かるだろうか?

その謎かけは、監督キェシロフスキから女優イレーヌ・ジャコブに対してのものでもあったのだろう。

あなたは私に触れるだろうか?

カフェでのやり取りは、そうした恐ろしくナイーブな感覚で作られているように僕には感じられます。

そして彼女は彼に触れた。

1991年に公開された『ふたりのベロニカ』のあと1993年から94年にかけての『トリコロール』3部作を撮り、キェシロフスキは本格的に国際舞台で活躍しながらも引退して死去することになります。彼はイレーヌ・ジャコブと出会い、彼女の作品を撮ることで万華鏡をそれ以上まわす必要を感じなくなったのではないだろうか。
DW

DWの感想・評価

3.0
■夕暮れみたいな映像がずっと続いて溜め息が出る。イレーヌ・ジャコブが美しい。デモ隊と機動隊の場面が一番好き。
…監督の妄想にセンスがないという点でフィリップ・ガレルよりタチが悪い。人によっては観続けるのに根性がいりそう。
KnI

KnIの感想・評価

3.5
Dekalog を鑑賞して大好きになったKrzysztof Kieślowski 監督の作品。

瓜二つ、二人のベロニカの奇妙な繋がり。
その偶然は必然なのか。
時折映されるクーデターの様子。多分政治的なメッセージもあるんだろう。もう少し勉強せな。
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