ryosuke

荒野の決闘のryosukeのレビュー・感想・評価

荒野の決闘(1946年製作の映画)
3.9
 導入部の手際の良さに惚れ惚れするな。敵役との初遭遇でクラントンの不穏な表情を見せておき、床屋への着弾というコミカルで魅力的なアクションを見せ、インディアンの無法者が銃を乱射する夜の酒場を外から捉えた印象的なロングショット(本作は闇が美しい)の後、ワイアット・アープが二階から侵入し、ヒーローとしての力を示す。次いで、弟と牛を置いておいた地点に戻ると、豪雨の中で泥だらけの死体を発見し、再会した仇に名乗りを上げる。ここまでのスピード感ね。
 チワワ(リンダ・ダーネル)との初遭遇のシーンは、即座に強烈なビンタを放つチワワの思い切りが凄いのだが、それに対して水桶にぶち込むアクションで答えるワイアット・アープも凄い。ウイスキーではなくシャンパンを所望したワイアットに応えて、滑ってきたグラスを目も向けずに止め、弾き返すドクの挙動。険悪な雰囲気が生じると、カウンターを拳銃が滑ってくるショットが挿入される編集の切れ味。弟の拳銃だと述べたワイアットは再度拳銃を滑らせる。酔ったドクがシャンデリアを撃ち落としてテーブルが炎上すると、返す刀の切り返しショットの中で、ワイアットは即座にドクをぶん殴る。編集が早撃ちなんだよな。クラントンが、酒場でワイアットに敗北した息子にムチを振るい、「抜くなら殺せ!」と叫ぶシーン。凄い教育方針だ。
 上記のように、重要人物との邂逅に常にアクションが介在するこの作品で、クレメンタインが登場するシーンだけがそうではないことが、彼女が別の世界の人間であることを示しているようにも思える。バルコニーでドクとクレメンタインが向かい合うシーン、ドクの顔だけが逆光による深い影で塗りつぶされているショット。このシルエットが病魔に犯されたドクの絶望の深さを端的に示している。
 教会の鐘が鳴り響く中で、ワイアットとクレメンタインが腕を組んで歩く移動ショットなど、唐突にバージンロードが出現したように見えてくる。このショットに引き続くシーンに一番の詩情を感じた。屋外に鐘を設置するためのやぐらを組んだ青空教会というアイデア自体が素敵なのだが、それが町の外れに配置され、抜けにモニュメント・バレーの巨岩や巨大なサボテンを擁する荒野が映る舞台で、聖書には踊るなとは書いていないと宣言され、皆がダンスをするシーン。
 ドクのアル中の医者という設定は『駅馬車』のブーンと一致しているがフォードの中にあるイメージなのかな。ウォルター・ブレナンは『赤い河』の歯抜けの老人のイメージが強かったが、振れ幅が凄いね。クラントンを演じた本作での、光のない残忍な目も見事。
 首飾りの約束されていた再登場から物語は一気に加速する。チワワがクラントンの名を口にした瞬間に銃声が鳴り響き、下手人が屋根から飛び降りると、走り去る馬を高所から狙撃するショットに接続される。キレッキレのショットの連鎖。
 決戦の朝、周囲が静寂に包まれる中で、OK牧場からの眺めである、一見無人ショットに見える超ロングショットの中を主人公が近づいてくるのだが、このショットが見事に運命の瞬間を予感させる。こういう決定的なショットの挿入だよなあ。
 決着の瞬間はバタバタと流れ作業的に死んでいく感じがあり、期待したほどではないのだが、そこに重点がある訳ではないのだろう。駅馬車が通りすぎて砂埃が舞い上がった瞬間に決闘が始まるのは良かった。息子を皆殺しにされたオールドマン・クラントンの悲痛な姿。しかし、ただトボトボと去っていくようなタマではないのだった。振り向き様に反撃しようとするオールドマンは、西部劇お馴染みのファニングショットで仕留められる。
 死んだドクの願いは、暴力の町にそぐわないクレメンタインに去ってもらうことだった訳だが、その代わりに平和がもたらされた町にクレメンタインが定住することになるのだから、ドクの願いは果たされたという訳だろう。「それにしても素敵な名だ、クレメンタイン」という台詞の通り、主人公を乗せて去っていく馬のラストショットを見つめながらも、彼女の名の響きが耳に残る。
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