牧師の苦悩を描いた「神の沈黙」三部作のひとつ。
最愛の妻に先立たれて以来、 失意のどん底に沈みながら、信仰に疑念を抱く牧師が主人公になっているが、彼の姿にベルイマンは父親を投影していたのだろうか。或いは、家業を継ぐという既定路線に進んだ自分を想像したのだろうか。いずれにせよ自伝的要素が色濃く、神の沈黙をストレートに描いている。
キリストの体とされるパンとぶどう酒を食する聖体拝領で始まる今作は、冒頭から映像の力に圧倒される。モノクロで映し出される教会の礼拝堂は立体感と奥行きがあり、神聖で立ち入りづらい雰囲気が漂う。その空間に浸かりつつ、このままカメラが教会から出なかったらキツイなと思ったりもした。
沈黙する神に代わり牧師がお喋りしても、核の恐怖が消えない漁師。牧師に縋りついても愛されない女教師。神に祈っても妻と死別する牧師。誰もが苦しむが誰も救われない。神の不在である。いや、神の居留守かもしれない。居留守を使って留守電メッセージを聞いているようだ。
牧師は救済にならない身の上話を、女教師は押しつけがましい愛を、教会の男はイエスの受難を、オルガン弾きの男は余計な事を、語り手は皆一方的で、聞き手は受けるだけ。それは壁とキャッチボールしているようで、神への祈りに似ている。神はすべての声を聞きながら沈黙し、すべての人に苦楽を与えているのかもしれない。教会の窓に射し込む「光」は神の存在を表しているのだろうか。その神秘的な光や、北欧の凛とした美しい冬景色が印象的だった。
悩みを抱えた人間を救えない牧師は残酷だ。牧師も人の子、ひとりの人間。牧師はつらい。人間は無力であるが、無力ゆえに愛おしい。