KnightsofOdessa

冬の光のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

冬の光(1962年製作の映画)
3.5
[形骸化した宗教に神は宿るのか、神の沈黙三部作②] 70点

神の沈黙三部作の中で唯一円盤化されている本作品をわざわざ映画館で見る輩は少なかった。そして私は持っているにも関わらず映画館で見てしまった。

牧師トマスは日曜日にミサを開くが参加人数は少なく、参加者も讃美歌を歌わなかったり途中で時計を見たりとやる気がない。冒頭から形骸化した宗教の構図を華麗に提示する。漁師のヨナスは中国が原爆を作ったことに対して絶望していたが、彼を牧師として救うことが出来ない。トマスとの問答の末自殺を選んだ彼を、トマスはただ見ることしか出来ない。また、マッタとの"愛している愛していない"問答の末、夕方の祈りに戻ってきたトマスは空っぽの礼拝堂で独りミサを始めるのだった。

形骸化した宗教というのは私が常々感じていることだ。最早誰のためでもなくなったミサは時間の浪費に過ぎないという強烈なメッセージに幕を開ける本作品は、その後牧師が"神が沈黙しているから自分の都合のいい神を作り上げた"という一番言っちゃいけないセリフを言うことでキリスト教批判は最高潮に達する。トマスの言う"都合のいい神"とは汎神論的な話題になってしまい、キリスト教的な一神=ヤハウェという構図とは根本的に異なっている。かなり辛辣な宗教批判だが、こういうの大好き。

マッタは只管トマスを追い回すのだが、トマスは彼女を愛していないと言う。これは前作「鏡の中にある如く」で提示された。"最後に残るもの=信仰、希望、愛"のうちすべてをなくしてしまった場合何が残るのかという問題提起だろう。そして、自分が信じていた"愛"、つまり亡くなった妻との愛は偽りの物だったということが終盤に明かされる。これによって観客及びマッタはトマスの信じる総てのものが空虚に見えるようになる。ちなみに、私はトマスがマッタに"愛していない"と言うシーンで「白いリボン」のクズ医師を思い出してしまった。そして、このシーンが意外と長い、チューリンは眼鏡似合わないので苦痛だった。
そして、チューリンとビョルンルトランドの"夫婦"というのは「野いちご」の繰り返し構造とも取れる。自分の考え方や価値観に絶望した男とその妻という関係は本作品にも共通している。

結局の所、前作「鏡の中にある如く」ではいない→いるけど沈黙していた神が、本作品では居たはずだが居なかった→そりゃ沈黙してるよねという展開になっている。神の生成消滅をやってのけたベルイマンが次作「沈黙」ではホームランをぶっ放すがそれはその時に語るとする。

スヴェン・ニクヴィストの光と闇を強調した映像は"凄味"がある。特にトマスが窓に向かって祈っている有名なシーンには鳥肌が立った。また、終盤で頭を垂れるマッタとトマスをカットで繋ぐワザには惚れた。

そして本作品でも"カーリンの系譜"として自殺するヨナスの妻がカーリンという名前を持っている。そして、カーリンを演じているのが私の最強のミューズの一人グンネル・リンドブロムである。彼女はベルイマンにバカだと思われているのか「第七の封印」では唖の少女、「野いちご」では初恋の人の従姉妹、「処女の泉」では粗野な異教信者、本作品ではトマスの祈りを拒絶する人妻役を演じている。毎回セリフが少ないのが哀しいが彼女の存在を確認できるだけで良しとしよう。
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