ちろる

処女の泉のちろるのレビュー・感想・評価

処女の泉(1960年製作の映画)
4.0
恵まれない境遇の、身ごもった若い召使いのインゲレとその屋敷の娘でなに不自由なく両親から愛されて育つ、無邪気で可憐な乙女カーリンの対比から始まるオープニング。
北欧神話に伝わる死の神オーディンにインゲレが鋭い顔で祈るシーンから、この物語はとても不穏な空気に包まれていたのだけれども、それでも途中まではグリム童話の「赤ずきん」を連想させるようなファンタジー感があった。
しかし飢えた獣のようで体臭まで漂ってくるような男たちの危険さも分からないほど無垢なカーリンの悲劇とラストの奇跡の展開はまるで聖書の逸話のようで、結果的にはおとぎ話よりも複雑な想いを残す重厚感のある仕上がりの作品だった。

詳しくないのに信仰について書くのはちょっと勇気がいるけれど、どうしてもそこに触れざる得ないから考えてみた。
ピクニックのようにしてヤギ使いの男たちと食事をするときにカーリンが祈った「神よどうか私たちをお守りください」という祈りは果たされず、怒りと哀しみで復讐を遂げた父親が「神よお許しください」と許しを乞う場面までの残酷な展開は遣る瀬無さを感じずにはいられない。
始まりから神の御心の近くにあるようなカーリンの家族と召使いたちの営みが印象深いのに、この後に彼らに起こる展開は、神の不在を感じずにはいられないのだけど、この作品の登場人物たちはそれでも神を責めたり信仰を放棄することはなく、誰もが自己を心の歪みの所為だと思い悩み、それらの許しを請うために祈った。
しかもカーリンの不幸をねがっていたインゲレまでもがヤギ使いが全く悪くないと庇うほどに自分の嫉妬心を悔やむのには驚いてしまう。

処女の泉は一体誰の心を癒し慰めるために湧き出たのかは正直わたしには分からない。

だからこのストーリーの一連の流れがこの家族の信仰心の深さを崇め、徳の高さ故に起こったことだと解釈するべきなのかは分からないのだけど、湧き出た泉が神によるなんらかの答えだったというなら、信仰とは神に委ね幸せを「守ってもらう」ような受動的なものでははなく、常に自らの行動を問いかけ反省しながらまた許しを乞うような能動的な存在であるべきだという解釈をするべきなのか?

全体的にはシンプルで分かりやすい展開ではあるけれど、解釈は何通りにもなりそうな複雑な結末なので好き嫌いが分かれそうな作品。
でも答えのでない「宗教」の存在意義について考える機会の少ない日本人の私たちにとっては一見の価値がある作品ではありました。
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