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ヘンリー・フールのotomisanのレビュー・感想・評価

ヘンリー・フール(1997年製作の映画)
4.1
 「ヘンリーのばか」と唱えた方が素直だろう。幼児相手の性犯罪歴を持ち保護観察中なのもいかがわし気なのらくら者風情だが、詩文への造詣もあり気と多彩?異様な人物だ。ひねくれたその態度は世間から捨てられた身の上ながら、こちらから捨ててやったと言いだしそうな、どこか倨傲さを潜めている。それがただハッタリなのか、見れば分かる通りネジが緩んでる証拠なのか。
 ところが、その馬鹿の手の中でサイモンの詩才が磨かれたようなもんで、その手からネット上に放される事でサイモンの作詩は全世界から賛否を集めるようになる。
 そこから7年、当初出版界で百戦錬磨の商売人らからは見限られたのに、何故か詩に触れた事もなさそうな人々の魂を一読で変えてしまう?サイモンはネット詩人としてブレークしノーベル賞受賞に結び付くのだから、ヘンリーも「ばか」どころではないはずなのだが、なぜか素直にはそうと認めがたい。

 サイモンを焚き付けて詩作に開眼させたのはその通りだが、同時にサイモンの一家に関わる事で母と姉フェイの人生行路は大きく乱される。そしてフェイとの間に望みもしない息子ネッドまで産まれてしまう。これがどこか、サイモンの成功と引き換えの不幸の連鎖のようでもある。ヘンリーが無意識に一家の吉凶を采配するような怪しいものに感じられるわけである。
 零落した書痴ヘンリーにはそもそもどこから来た何者か、どんな転落の末にこうしているのかも分からない異人の凶相が感じられるのだ。

 しかし、ヘンリーは悪意で物事を拗らせるのではなく、素直な善意と言ってもいいくらいの考え無しな発意の稚拙な企みや無謀な手出しで事を暗転させてしまう。これは悪魔的な善意である。神の子は死人さえ生き返らせたろうが、ヘンリーなら、サイモンの母親のように生かすべき人も死なせ、自らも人を死なす羽目になる。
 暴力に苛まれる隣家の娘を庇ってその父親を意図せず殺してしまう。それを嘱託殺人とまで問われ、ひいては逃亡のためにサイモンを窮地に追いやる事にもなる。この一連の事態が、世界的名声と引き換えでサイモンに社会的自死を選ばせる韜晦な「悪意」の果て、にも思えるのは、やはり、あのヘンリーだからこそである。

 ここに至って、ヘンリーの存在は人間界のどん底を突き抜けて、受肉した悪魔が魔力を失ない、それと意図せずともその存在自体が人やもの事の命運を狂わせる力源であるかと思え始める。これは善意に堕落した悪魔の生き損ないな姿を嗤うべしと曝す話であろうか?
 そんな中でもサイモンには自分の詩才を見抜いてくれた異才であり恩人である事は変わらない。あるいは犯人隠匿だろうと共助だろうと、腐れ文しか書かなかった壊れ書痴とヘンリーに失望して7年の無沙汰の後でもヘンリーの何者かを下地をつくづく眺めて知っていれば、ヘンリーが誰を殺そうとそれは殺される方が悪いと感じ、泥をかぶる覚悟も湧くのではないだろうか。

 サイモンに成りすまし、サイモンの名声を着てその特恵的待遇で天国行きのチャンスをつかんだヘンリーが駐機場でいっとき歩をためらう表情に、そのまま事態に流されれば誰にどんな凶事が待ち受けるのか初めて常人の理性が降りてきたかのような錯覚を覚えてしまった。
 再び走り出すヘンリーが元の道、家族のもとに戻るのに違いない、との思いはのちに覆るが、戻ったところでやはりヘンリーはあの通りに違いない。更に、ひとたび始まったこの逃亡事件でサイモン、あるいはフェイさえも有罪は間違いなく、それなら、ヘンリーひとりでも彼らを踏み台にしてでも自由、これは政府から司法からの自由という事に過ぎない、しかし、それでも無いよりましな自由に違いなく求めるべきなのだ。
 なぜなら、ヘンリーはヘンリー・フールという生き損ないの牢獄からはどうやっても逃れることはできないからだ。しかし、それでも手探りすれば縋る何かが、7年前のサイモンの一家のようにきっと現れて死地をまた掻い潜る事ができるだろう。これが堕落した悪魔の最後の伝手なのだ。
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