キッチャン

新幹線大爆破のキッチャンのレビュー・感想・評価

新幹線大爆破(1975年製作の映画)
4.0
新幹線大爆破

概要
「新幹線が走行速度80km/hを下回ると爆発する」という状況下で繰り広げられる、犯人と国家との攻防劇である。新幹線に爆弾を仕掛けた犯人、危機の回避に全力を尽くす日本国有鉄道(国鉄)サイド、わずかな糸口を頼りにその正体を追いかけ、徐々に犯人グループを追い詰めていく警察、パニックを起こす乗客の姿で主に構成されている[9][13][14]。

犯人側の人生背景にも大きくスポットが当てられており、町の零細工場の経営に失敗した男・過激派くずれ・集団就職で都会に来た沖縄出身の青年がなぜ犯行に至ったのか、日本の高度経済成長時代への批判を暗示しつつ明らかにされていく[15][16][17][18][19]。犯人側にもドラマを与え感情移入を狙った演出も相まって、単なるパニックムービーとして括れないことが高評価に繋がっている[1][20][21][22]。

ストーリー
ある朝、国鉄本社に東京発博多行きの新幹線「ひかり109号」に爆弾を仕掛けたという脅迫電話がかかってくる。犯人は速度が80 km/h以下になった場合に自動的に爆発するといい、さらに嘘ではない証拠として、北海道の夕張線[注釈 2]を走る貨物5790列車に、15 km/h以下になると爆発する同種の爆弾を仕掛けたと伝える。ほどなくして犯人が指定した貨物列車は伝達通りに爆発し、国鉄と警察は脅迫が事実だと知る。「ひかり109号」は新横浜駅を通過したところであり、国鉄の運転指令長・倉持は運転士・青木に爆弾の存在を伝え、運行速度を120 km/hに抑えることを命じる。解決のリミットは博多駅に到着するまでの約9時間であった。

犯人は潰れた町工場の社長・沖田哲男と、その元社員で集団就職で沖縄から来た青年・大城浩、過激派崩れの古賀勝の3人であった。沖田は追加の電話で500万米ドル(当時約15億円)を要求し、代わりに爆弾の解除方法を教えると伝える。警察は北海道の爆弾から古賀を把握するも、それ以上の手がかりはなく、ひとまず要求を呑むことを決める。沖田は捜査を撹乱するため、矢継ぎ早に電話やトランシーバーで受け渡し方法を伝え、荒川上流の長瀞渓谷にて大城が運び役の刑事から現金を受け取ることになった。警察を上手く出し抜いたものの、偶然、大学柔道部の集団が通りかかったことから、張り込んでいた対岸の刑事は大学生らに犯人を捕まえてくれと頼む。大城は金を諦めて逃亡するも警察に追跡され、その逃亡中に交通事故で死亡する。遺体には身元を示す持ち物はなく、警察は手がかりを失う。

新幹線車内では折からの遅延連絡に加えて、停車駅である名古屋駅を素通りしたことで乗客たちが騒ぎ出す。名古屋駅で降りる予定であった妊婦・平尾はパニック状態となって産気づく。無理にでも列車を止めようとする乗客まで現れたことにより、乗り合わせていた鉄道公安官・菊池はやむを得ず、車内放送で乗客たちに爆弾のことを伝え、協力を頼む。

警察は古賀の実家に送られた請求書の住所から、東京都板橋区志村に捜査官を派遣していたところ、アジトである沖田の家に向かう途中の古賀を偶然発見する。古賀を逮捕しようとするも逃してしまうが、その際の発砲によって足にけがを負わせていた。大城の死と古賀の負傷で計画を悔やむ沖田であったが、古賀の説得で再開することを決め、警察に再び身代金の受け渡し方法を伝える。警察を完全に出し抜き今度こそ500万米ドルを手に入れた沖田は、捜査当局に対して「喫茶店に爆弾の解除に必要な設計図を預けた」と連絡する。警察と国鉄の技術職員がその喫茶店に急行するも、偶然の火災によって設計図ごと焼失していた。一方で警察は北海道の爆弾にあった速度計測装置の線から沖田を特定する。警察に包囲される中、沖田の家にいた古賀はダイナマイトで自爆死を遂げる。

警察は沖田の行方を探そうとするも顔写真すら手に入れられない。その代わりに倉持が、沖田に火災の件と解除方法を教えて欲しいと呼びかけるテレビ放送を流させる。また、ことごとく失敗しているニュースは新幹線の乗客たちにも伝わっており、恐慌状態に陥りかけている。平尾は処置も虚しく流産に終わり、このままでは母体にも危険があった。

度重なる警察の無能さに倉持ら国鉄職員は激怒し、独自に動き始める。広島付近の鉄橋において高速度撮影機を使って列車下部を撮影し、仕掛けられた爆弾の場所を特定する。他方で政府は解除が間に合わなかった場合に備えて、被害が大きくなる北九州工業地帯や博多ではなく、山口県の田園地帯で列車を停止させて爆破するように国鉄総裁に命令する。一方、現場では救援車を並走させて酸素溶接機一式を新幹線に送り込むと、爆弾上部の床を開け、コードを切って爆弾を解除することに成功する。先の写真分析からもう1か所爆弾がある可能性があったものの、倉持の決断によって山口県内で列車の停止が命じられる。結果、80 km/hを下回ったが爆発することはなく、乗務員と乗客は無事であった。

乗客たちの無事に安堵した倉持であったが、警察が沖田を捕まえるために、未だに爆弾解除成功のニュースをテレビに流さず、自身が沖田に呼びかける放送をさせていることを知る。倉持は警察を批判し、特に山口での停車の決断について乗客の命を守ることに疲れたとして辞職することを告げる。

一方、警察は沖田が国外逃亡を企てていることを掴み、羽田空港に張り込んでいた。未だ顔がバレていない沖田は別人名義のパスポートで警察の目を出し抜くも、警察は出国ゲートに彼の別れた妻子を同行させていた。それを見て動揺した沖田は警察に気づかれ、空港内で逃亡を図るも追い込まれてしまう。最期は夜空に飛び立つ飛行機の下で、沖田が狙撃隊に撃たれるショットで物語は終わる。

出演者
主要人物
高倉健:沖田哲男
千葉真一:青木運転士(ひかり109号)
宇津井健:倉持運転指令長
その他
山本圭:古賀勝
郷鍈治:藤尾信次
織田あきら:大城浩
竜雷太:菊池(鉄道公安官)
宇津宮雅代:富田靖子(沖田の元妻)
藤田弓子:秋山(女医)
多岐川裕美:スカンジナビア航空係員
志穂美悦子:国鉄本社電話交換係
渡辺文雄:宮下義典国鉄公安本部長
福田豊土:田代車掌長(ひかり109号)
藤浩子:事務員
松平純子:喫茶店「サンプラザ」ウェイトレス
久富惟晴:広田警視庁特捜係長
青木義朗:千田刑事
千葉治郎:救援列車の運転士
原田清人:三宅新幹線技師長
浜田晃:長田刑事
中井啓輔:哲ちゃん(マネージャー)
山本清:高沢運転車輌部長
矢野宣:南(商社マン)
近藤宏:松原刑事
田中浩:堤刑事
中田博久:新幹線東京運転所係員
林ゆたか:中やん(録音技師)
横山あきお:アパートあかね荘管理人
浅若芳太郎:乗客
植田峻:平尾修一(和子の夫)
松野健一:小宮運転指令
田島義文:佐々木刑事
田坂都:平尾和子(妊婦)
十勝花子:乗客
片山由美子:バー「スナックファミリー」のホステス
渡辺耐子:古賀の兄嫁
津奈美里ん:アパートあかね荘の住人
森みつる:田口洋子(バー「スナックファミリー」のホステス)
風見章子:靖子の母
荘司肇:乗客
阪脩:磯村記者
佐伯赫哉:野口運転指令
福岡正剛:杉村(会社員)
岩城滉一:東郷あきら(ロックミュージシャン)
小林稔侍:森本運転士(ひかり109号)
片岡五郎:佐原刑事
仲野力永:大阪商人
日尾孝司:機動隊長
伊達三郎:商人風の男
藤山浩二:広岡記者
滝沢双:河村専務車掌(ひかり109号)
佐藤晟也:乗客
仲原新二:警視庁公安一課長
森祐介:畑電気指令
佐藤和男:小野運転指令
岡本八郎:山ちゃん(カメラマン)
阿久津元:警視庁刑事
黒部進:後藤刑事
河合絃司:部長刑事
土山登士幸:岩上刑事
相川圭子:ウェイトレス
小甲登枝恵:清掃係の小母さん
山下則夫:清水専務車掌(ひかり109号)
須賀良:男
山本相時:電話局係員
松沢勇:電話局係員
山本緑:乗客
久地明:消防士
相馬剛三:刑事
山田光一:乗客
木村修:記者
五野上力:上野刑事
高月忠:浜松駅係員
城春樹:食堂車コック
畑中猛重:貨物5790列車機関士
浜田勇:テレビの歌手
清水照夫:救援車作業員
亀山達也:救援車作業員
山浦栄:食堂車コック
田辺進三:閉所恐怖症の男
青木卓司 :乗客
佐川二郎:野上駅荷物扱所係員
中条文秋:乗客
菅原靖人:賢一(沖田の息子)
秋山幸輝
河口真佐幸
岡久子
伊藤慶子:乗客
美原亮三:乗客
宮地謙吾:貨物5790列車機関助士
長岡義隆:若者
打越久員:志村駅長
祝真一:武田伸夫
渡辺義文:ナベちゃん
泉水直子
新倉文男
前田美智子
篠ゆたか
藤木あけみ
菊地正孝:刑事
横山繁:航空会社係員
大泉公孝:埼玉県警刑事
高鳥志敏:空港の刑事
宇野静代
藤井秀之
志村喬:国鉄総裁
山内明:内閣官房長官
永井智雄:国鉄新幹線総局長
鈴木瑞穂:花村警察庁捜査第一課長
特別出演[注釈 3]
丹波哲郎:須永警察庁刑事部長
北大路欣也:空港で古賀を張り込む刑事
川地民夫:佐藤刑事
田中邦衛:古賀の兄
ノンクレジット
エンベル・アルテンバイ:空港の外国人
泉福之助:救援列車作業員
スタッフ
監督:佐藤純弥
企画:天尾完次、坂上順
原案:加藤阿礼[注釈 1]
脚本:小野竜之助、佐藤純弥
撮影:飯村雅彦、山沢義一、清水政郎
美術:中村修一郎、桑名忠之
録音:井上賢三
照明:川崎保之丞、梅谷茂
監督補佐:岡本明久
編集:田中修
記録:勝原繁子
擬斗協力:日尾孝司
スチール:加藤光男
進行主任:東一盛
装置:畠山耕一
装飾:米沢一弘
美粧:住吉久良蔵
美容:宮島孝子
衣装:河合啓一
演技事務:山田光男
現像:東映化学
音楽:青山八郎
主題曲:RCAレコード
特殊撮影:小西昌三(NACフィルムエフェクト)、成田亨(モ・ブル)、郡司製作所
協力:日本無線株式会社、旭光学工業株式会社、谷村新興製作所、イスのコトブキ
製作
企画
1974年5月、岡田茂東映社長は、天尾完次東映東京撮影所企画部長[23]との打ち合わせで実録路線に代わる新たな映画の素材を探し始めた[8][24][25][26][27][28]。「アメリカでヒットしているものは日本でもウケるから、常にアメリカの動向を観察していなければならない[2][24][29]」「洋画で流行っているものは、必ず邦画にもその流れが来るはずだ[27]」「世間をアッと言わせるような作品を早急に考えろ[25]」と、ブルース・リーを千葉真一に置き換えて作らせた「殺人拳シリーズ」などカラテ映画も業績好調と裏付けられていたため[27][30][31][32]企画部に新たな企画を出すよう指示[24][27][29][注釈 4]、「『大地震』や『タワーリング・インフェルノ』みたいなパニック映画をやってみろ!」と東映東京撮影所に社長命令を出した[1][2][8][25][27][29][33][34][35][36]。アメリカではパニック映画の人気がピークを迎えていた[26][37]。

東京撮影所全体に本作品製作の指示を出したのは、社長宅にデモをかけ逮捕者を出すなど[38][39]同撮影所が組合運動ばかり熱心で[32][40][41]、当たる映画を1本も作れていなかったからであり[42][43][44]、天尾完次は[45](鈴木則文も[45])それまで東映京都にいたプロデューサーだったが[45]、1973年秋に閉鎖の構想があった[25][40][46][47]東京撮影所の徹底的なテコ入れのため[45]、同撮影所に送り込んだ刺客であった[45]。

千葉真一主演でビル火災の消防士の活躍を描く『タワーリング・インフェルノ』と、後の『バックドラフト』を合わせたような『猛煙三十六階』[48]『燃える三十六階』などの企画も新聞報道されたが[49]、そんな中、6人いた東京撮影所企画部のプロデューサーの1人[23]坂上順は、黒澤明の脚本『暴走機関車』や[34]、ロッド・サーリングの脚本による1966年のアメリカのテレビムービー『夜空の大空港』をヒントに[50][51]、「何か問題があれば必ず止まる“安全神話”を誇る新幹線が、もし止まらなくなったら?[27]」という企画を提出した[18][27][34][52][53][54][55]。「『日本にしかない題材の新幹線を選び、それを乗っ取る・爆発させる』というストーリーは日本だけでしか出来ず[注釈 5]、外国に持っていっても遜色ないものが出来る[2][24]」として製作は進められた[27][56]。当時は三菱重工爆破事件など、連続企業爆破事件が発生していた時期で[57][58]、警察関係者は神経をとがらせていた[58]。岡田社長は「企画に柔軟性を持たせ、社会的に話題になった事件はどんどん映画化していく」という方針を打ち出し[59]、企業爆破事件を映画にするという情報も流れ[59]、三億円事件の時効を想定した映画(『実録三億円事件 時効成立』)まで製作を始め[57][59][60][61][62][63]、警察当局も「東映は好ましくない映画ばかり企画する」と渋い顔をしていたといわれる[57]。本作品のチーフ助監督で共産党員でもある[25]岡本明久は「高度経済成長のシンボルとも言える新幹線を爆破するという発想には驚いた」と話し[64]、「岡田社長は他社にない東映の良さは、時代の流れを見て何でもやる、変幻自在なところだと話していた」と述べている[64]。佐藤は「当時の東映ってのは企画も非日常、バカバカしい大騒ぎするようなことを出していかないといけないムードでね。今でいうなら『東京オリンピック爆破』くらいのことね」などと述べている[52]。大川博が国鉄OBだった縁で、1960年の映画『大いなる旅路』は、冒頭で貨物列車が転覆するシーンに本物の車両を出し、国鉄から表彰されていた[53][65][66]。このような実績と蜜月で、国鉄の全面的な協力を期待[33][53][65][67]。東映は特撮があまり得意でなく、「実写をふんだんに使い、迫力のあるパニック物を作ろう」と構想していた[24]。

予定していたタイトルは『新幹線爆破魔を追え』であったが[68][69]、岡田は「新幹線大爆破!」と変更[1][27][70][71][72]。「半期に一本のスーパーアクション」[73]、「実録ものの一バリエーションとして、企画の幅を広げる意味でも是非実現し成功させたい」[69]、「従来の東映の客層にプラスアルファを狙いたい」などと張り切り[74]、東映系の映画館主や関係者からも「これは当たる」「東映カラーを打ち破る手がかりになる」などと評判が良く、マスメディアからの反響も大きく「本作品が成功すれば路線変更」という声も上がった[24]。

監督・脚本
天尾完次と坂上順は緻密なコンストラクションという点で、「東映東京撮影所では佐藤純弥しかいない」「それに粘り強いライターなら小野竜之助だろう」と、佐藤と小野の2人を組ませた[24][33][75]。佐藤へのオファーが1974年初夏[6]、小野へのオファーは同年11月だった[24]。坂上が「網走番外地シリーズ」のロケで世話になった層雲峡温泉の「ホテル大雪」に[15][76]、佐藤と小野の2人は1か月以上籠り[15][50][52]、ストーリーを練った[15][33]。佐藤は本作品の2 - 3年前、国鉄国際部の依頼で[50]海外広報用に新幹線のPR映画を作った経験があった[8][6]。「新幹線が一定速度を下回ると爆発する」というアイデアは坂上の着想とされ[6][18][77]、「飛行機は着陸したくても着陸できないというサスペンス映画があるけれど、新幹線の場合、停まりたくても停まれないというサスペンス映画はできないですか」と佐藤に伝えた[24][52]。佐藤は東京・本駒込の六義園近くにある、鉄道関係の専門書を多く発刊している書店の交友社に出向き「新幹線教則本」を購入[6][53]。また前述のPR映画を作った際に、国鉄の広報担当者が「新幹線は地上最速の輸送機関でありながら、最も安全である。なぜならば、新幹線の安全対策は多岐に渡るが、その根本思想は、何かあったら直ちに停止するということだからだ」と語っていたことを思い出し、爆発のメカニズムのアイデアを膨らませた[6][8][52][78]。走行速度80km/hで爆発する設定を考案したのは佐藤である[52]。元々、子どものころからラジオ製作などが好きで、一定の周波数を検知するとスイッチが入るというメカニズムが有り得るということは知っていた[8][52]。国鉄サイドからすれば、本作品のアイデアがそうした盲点を突いていたことが、当初は蜜月関係だったにもかかわらず、協力を嫌がった理由といわれる(後述)[24][55][79]。佐藤は後年のインタビューで「ああいう爆弾を素人が作ることは難しいでしょうけど、あのころは東京駅の階段の横から新幹線内部に潜入することも出来ましたし、当時は計画を実行することはそれなりに可能だったと思います。だから国鉄は映画が公開されたら、真似されることを恐れたんだと思います」と述べ[50]、演出的なバネとなったのは『わらの犬』と話している[80]。町山智浩と春日太一は、全体のプロットは、黒澤明脚本『暴走機関車』と黒澤監督の『天国と地獄』、スタンリー・キューブリック監督の『現金に体を張れ』を参考にしているのではないか、と指摘しているが[8]、パニック映画はリスクが大きいため[8]、古今東西を問わず、たいてい売れている原作の映画化が多い[8]。しかし本作は東映の完全なオリジナル作品で[8][9]、これ以前には作られなかったシチュエーションを持つ点でも価値があった[8][9]。

浜松駅での上り線への切り替えシーンのアイデアは、黒澤明脚本『暴走機関車』に佐藤がB班として参加した際、実現はしなかったが似たシークエンスがあったという[8][15]。関川秀雄の兄[注釈 6]が新幹線開発に加わっていたために話を聞いたり[8][53]、静岡県浜松市の国鉄浜松工場を訪ねたりして資料を集めていた[6]。

キャスティング
1973年、映画『ゴルゴ13』からプロデューサーとなった坂上順は[34]、製作進行係をしていた時から俊藤浩滋や高倉健にいろいろ教えてもらっていた縁から[34]、主役の沖田哲男役のみ高倉と決めていた[34][67][76]。しかし岡田茂は「もう鶴田浩二、高倉ばかりに頼るな」と言い[34]、菅原文太を主役として押し出すことを構想していたとされ[8][82]、東映は社の方針として「菅原文太・梅宮辰夫・千葉真一でやっていく」と決めていた[34]。当時の東映では、製作方針を巡って社長と俊藤プロデューサーの内輪揉めがあり[8]、これに巻き込まれていた高倉は東映から心がどんどん離れていった時期であり[8]、またヤクザ映画ばかりやらさせることに嫌気が差していたともされる[8]。

坂上は高倉に脚本を見せると「こんな面白い映画なら、どんな役でもいいからぜひ参加したい、もちろん犯人役でも構わない[54]」と言ったが[53][76][77][83]、社の方針で沖田には菅原がキャスティングされ[34][84]、倉持には高倉がキャスティングされた[要出典]。和田誠は「これは門外不出のエピソードでしょうけど、高倉さんが『新幹線大爆破』は僕が運転手で宇津井健さんが犯人をやるというキャスティングだったんだけど、僕が犯人をやるから宇津井さんに役を替えてくれって言って役が交替したんですと聞いた」と話している[85]。しかし菅原は「この映画の主役は新幹線で、演技者は付け足しだ[8][69][83]」「国鉄の協力が無くてできるわけがない[86]」と断ってきた[69][83][86]。坂上は本社で「社長が『若いのでやれ』って言ってるんだから梅宮か、小林旭にしろ」と聞かされ、岡田からも「高倉にこだわっていたら、企画が前に進まない」と念押しされた[86]。高橋英樹も主演候補に挙がったが[87]、坂上は当時はまだ下っ端プロデューサーで[76]、散々迷った挙げ句、社長宅へ夜10時ごろに電話して「どうしても健さんでやりたい」と訴えた[67][76][86]。通常の映画作品よりもキャストと特撮の双方で予算がかかっているため「本来のギャラを出せない」と思っていた岡田は[82]、「高倉でやりたいならば、全体予算を詰めるのがお前の仕事だ」[76]「通常のギャラの半分でいいなら、高倉を起用してもいい」[67][82][86]と条件をつける。坂上は実情を正直に高倉に話すと、高倉はギャラ半分の提案に憤慨し[76]「坂上いぃ、機関車は石炭がなければ走れないぞ」と言いながらも[76]、「この作品は役者として絶対に演りたい」という強い思いから[76]、その無茶な申し出を承諾[76][82]。「ギャラは半分でいいが、その代わり映画が当たったら成功報酬のパーセンテージが欲しい[76][83]」という契約で坂上のオファーを受けた[67][76][86]。高倉は当時のインタビューで「この映画に関しては俳優の魅力なんかは二の次で、ストーリーの面白さがある」「大変面白い脚本で、久しぶりにのってるんです」と述べている[24]。

脚本の小野竜之助は、フランスで公開された内容のような凶悪犯と設定し、犯罪者側の視点は簡潔なもので[77]、国鉄および警察側のみから描く予定だった[88]。しかし高倉の出演により[65][88]、犯人の人間像を膨らまし[88]、「なぜ、犯行に至ったのか」という犯人側のそれぞれの背景を書き足し、シナリオを「複眼」にした[65]。ただ、坂上はシナリオ段階から高倉主演でシナリオを書いてもらっていたと証言している[76]。ヤクザ映画のヒーローで通っていた高倉が、ジャンパー姿の倒産した中小企業の社長役を引き受け、時代に取り残されて絶望的な反撃を試みる男を演じ、本作は高倉がこれ以降に幅広い役柄をこなすきっかけとなった[15][87]。

千葉真一は当初別の役だったが、坂上が何とか依頼して青木運転士を引き受けてもらった[89]。全編を通してほぼ運転席に座っていた青木だが、ゴーグルを着けて客車の床を焼き切り[90]、やけどをするシーンは千葉のアイデアによるものだった[89]。高倉、宇津井、千葉の3人は同時アングルでは出演していないが、高倉と宇津井が談笑する姿や新幹線の模型を持つスチル写真が撮影されており[91]、新東宝出身の宇津井は東映初出演となった。坂上は犯人と対峙する花村警察庁捜査第一課長に丹波哲郎を配役し、『網走番外地』で高倉と対峙するイメージを描いていたが、丹波に「4日しか空かない」と言われ、鈴木瑞穂に変更[92]。脚本では丹波と鈴木の役は1人だったが、分けたことで丹波の役は重要度が下がることとなる[92]。坂上は宣伝ポスターを作った当初、出演者表示欄で丹波の名前を最後から2人目に並べ、宇津井を最後に置いた[92]。これに新東宝で宇津井の先輩である丹波が抗議したため、丹波に対して「特別出演」の文字が付加された[92]。

学生運動くずれの古賀勝には当初、原田芳雄へオファーしたが、「テロリズム的なものは嫌だ」と断られたため[93]、ミスター左翼こと[8]山本圭がキャスティングされた[8][94][95]。山本は左翼青年かナイーブな青年を演じることが多い役者で[8][95]、本作の劇中でも成功したらどうするかと高倉健に聞かれ「どこか革命の成功した国に行ってみたい」と語っている[95]。山本のキャスティングは、組合運動が盛んだった東映東京の思いが込められたものであった[8]。春日太一が山本にインタビューする機会があり、「左翼崩れの役が多いですね」と話したら「俺、そんなにやってないよ!」と怒ったため、「いや、やってますよ!」と次々と作品を挙げて言い返したことがあるという[8]。本作を観た原田芳雄は「断って申し訳なかった。次は是非ご一緒に」と、『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)に出演した[93]。山本の出演で坂上はプロデューサーの宮古とく子と縁ができ、『新幹線大爆破』を宮古に褒められ「『君よ憤怒の河を渉れ』の監督に起用したいので佐藤を紹介してくれ」と頼まれた[89]。高倉の『君よ憤怒の河を渉れ』出演も、本作品と同じ佐藤監督からの縁によるものだった[96]。制作費の高騰により、俳優へ協力を頼み、通常より低めのギャラで出演してもらった[24]。カメオ出演のうち、北大路欣也はノーギャラ[53]。岩城滉一は映画デビュー作だったもののアップで映るシーンがなく、役柄を前もって確認しておかないと気づきにくい[97]。

中学2年の封切時に松山の東映封切館で本作品を観たという杉作J太郎は、「当時の東映映画は、実録ものか、空手映画か、劇画ものか、ポルノ(東映ポルノ)というプログラムだったので、それらでは見かけない宇津井や竜雷太、山本圭ら東映とは無縁の役者が"不良性感度"100%の東映のスクリーンに登場したことに絶句した」などと話している[98]。

このほか、『小川宏ショー』に出演していたフジテレビのアナウンサー露木茂に、テレビの報道記者の役で、1975年5月16日に正式に出演オファーを出した[99][100]。露木がよど号ハイジャック事件やあさま山荘事件のリポートで知られていたことから[100]、テレビで刻々とニュースを伝え、犯人にも呼びかけるうってつけの配役と、露木も「断る理由は何もない」と話し、『小川宏ショー』のスタッフからも「いいお話じゃないですか」などと乗り気だったが[99][100]、露木はアナウンス部ではなく解説委員室というお堅いセクションに所属しており[100]、上司から「映画の内容が内容だけにどうか?」と反対され、出演には至らなかった[100]。

制作費
制作費は5億3000万円[6][7][28][101]。製作当時の東映東京撮影所所長・幸田清は「ふんだんに岡田社長に金を使わせてもらっているので、これが当たらなかったらオレはクビだと思う。俳優、スタッフとものりにのっており、東撮始まって以来の熱気だ」などと話していた[101]。東映の作品において過去最大の金額と言われ[24]、監督の佐藤純弥は2002年のトークショーで「現在の貨幣価値なら20億円くらいでないか」と述べている[53]。プロデューサーの坂上順は2012年のインタビューで「制作費は1億5000万円、今に換算すれば10億円ぐらいになるでしょう」と述べている[67]。

撮影
準備まで
国鉄に実物の新幹線0系電車の撮影協力を交渉したところ、安全を謳い文句にしていた国鉄は刺激的な映画のタイトルに難色を示し[8][33][72][75]、「『新幹線大爆破』という映画のタイトルでは新幹線のイメージが悪くなるので、『新幹線危機一髪』というタイトルへ変えるなら撮影に協力しても良い」とタイトル変更を打診するが[1][15][27][55]、岡田茂は「題名は絶対に変えんぞ!」と断固拒否した[1][27][52][65][67][71][72]。国鉄では当時、森繁久彌が「安全です国鉄は」と訴えかけるCMを放映していた[102]。1974年12月、国鉄が「現在、新幹線に爆弾を仕掛けたという電話は週に1本の割合でかかって来て、その度にいたずら電話かも知れないが、必ず最寄の駅に停車させて検査するような状態である。このような映画は、さらに類似の犯罪を惹起する恐れがあるから製作を中止されたい」と、本作品の企画に断固反対の姿勢を打ち出した[6][17][20][25][72][76][78]。1975年2月初めに国鉄から80%協力は得られないという線が出て[56]、児童教育映画を作るからと称して申し入れたがこれも拒否され[103]、同年4月に一切の撮影協力を断られた[24][27][103][104][105][106][107]。1975年の3月 - 4月の間、表立った製作はストップしたが[8][56]、この間に国鉄の協力なしで撮影が可能か検討された[56]。

撮影決行
『週刊朝日』1975年4月18日号に「九割がた製作中止になりそう」と報道されるが[102]、「活動屋魂、見せてやろうじゃねえか!」と[25]、現場の士気はかえって上がった[15][17][25][52]。1年以上かけた企画を潰すことはできず、ロケーション撮影が不可能となり、「隠し撮りとミニチュア撮影の合成で行け」と指示を受けた[24][87]。製作態勢がほぼ整ったのは1975年4月半ば[56]で、A班、B班、特撮班、実写班と4班のスタッフが編成され[56]、1975年4月29日クランクイン[56][108]。特撮カメラを担当した清水政郎は「時期が時期だけに中止だろう」と思っていたため、製作決行に驚いたという[109]。

製作会見
撮影中の1975年5月12日、東京・有楽町の東京交通会館15階スカイラウンジにて製作発表会見が行われ、登石雋一企画製作部長、佐藤純弥監督、高倉健、宇津井健、山本圭らが出席した[58][108][110]。会見会場からは東京駅の新幹線ホームがよく見え[108]、高倉らはそれを背に質問に答えた[58][108]。高倉は「数年ぶりに見た素晴らしいシナリオだった。犯人役だといってもそんなことに抵抗はない。全部が難しい役柄だが、それだけにやりがいがある」[58]、宇津井は「どんなにコンピューターがすぐれていようと、最後に頼れるのは人間の力。大映で『ごんたくれ』を撮ってから8年ぶりの映画で気合が入っています(実際はこの間の映画出演はある)」などと話した[58]。国鉄が非協力だけでなく、クレームを付けているという報道が流れていたため、世間の関心も高く、報道陣からの質問はそれに集中した[58][110]。東映は「警視庁、国鉄にシナリオを提出し『われわれは反社会的意図でこの映画を作るのではない』と説明したら、関係当局から『類似行為が起こらないよう注文を受けた』と回答された」と説明した[58]。佐藤は「現実に爆弾を仕掛けたという脅迫電話が新幹線総局に月に2、30件あると聞いている。映画で多少は増えるかも知れないが全く別の問題だと思う。類似犯罪についても絶対に真似でできない仕掛けだから心配ない」などと話した[108]。マスメディアからは製作できないのではないかと思われていたため[111]、「本当に作るのか?」という質問まで出た[112]。他に登石より「作品は二部構成で二部の結末にはアイデアを募集。詳細は何れ新聞で発表する」との説明があった[110]。 

特撮とロケなど
東京駅ホームの階段を、バンド仲間と昇る東郷あきら(岩城滉一)のシーンは、東映東京撮影所の中庭に東京駅の原寸大のプラットホームを建てたが[52][113]、東京駅全景のカットは盗み撮りであった[52]。新幹線運転司令室は同撮影所の最大のステージにセットが組まれ[25][106]、中央部に実際に使われていたものと同じCTC表示板が鎮座し[25]、他のステージの多くも本作の撮影用に占拠された[25]。「社長が京都か東京のどちらかの撮影所を潰すと言っている」という信頼性の高い情報が駆け巡ったため[25][40][46]、東京撮影所の存続をかけ、多くのスタッフが本作の製作に志願した[25]。裏ルートで取材を行い、実物大の客車セットや模型を製作した[6][33][106]。急ピッチで撮影に入るが[71][114]、撮影に充てられる期間は実質的に5週間程度だった[8][52]。当時のニュース映像や資料写真を参考にしたり、色々な手を使って本物そっくりのセットを作りあげた[6]。このため、国鉄からは3年間出入り禁止となった[52][53]。特撮部分には総額6,000万円をかけている[24]。

また、鉄橋の下での撮影などは『新幹線大爆破』というタイトルでの申請では門前払いを喰らうので、『大捜査網』というタイトルのシナリオを30部ほど印刷し、ロケ交渉ではそのシナリオを先方に渡して許可を取った[33]。国鉄9600形蒸気機関車の走行シーンは[115]、東映が200万円で北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道から購入[115]。夕張線の貨物5790列車の走行シーンも同鉄道で撮影され、国鉄ではないために撮影が可能だった[15]。爆破シーンは、北海道炭礦汽船夕張鉄道線の一部を引き継いだ夕張市若菜の専用線で1975年6月10日に撮影された[79][115]。事前に陸運局や警察署、消防署など関係当局に許可を取り、大平火薬から専門家を招き、4台のカメラで撮影した[115]。貨物駅のシーンは、埼玉県熊谷市の秩父鉄道広瀬川原車両基地で撮影された。線路が見えるところや車両基地、古賀勝(山本圭)が線路を渡って逃げていくシーンは、西武鉄道の協力によるものだった[8][52]。東映東京の最寄りの駅である西武池袋線大泉学園駅は学園都市として開発されたが[8][116]、大学の誘致に失敗して「学園」という名前の駅名と町名のみが残った[8][116]。このため、西武鉄道にとっては東映はありがたい存在で仲が良く[8]、「好きなだけ使って下さい」と返答があり[8]、大泉学園駅を東京駅に見立てたシーンもあるとされ[8]、他の駅や線路なども西武池袋線沿線がかなり撮影に使われたとされる[8]。古賀が線路を渡って逃げるシーンは、都営地下鉄三田線の志村車両検修場構内で撮影された。犯人グループのアジトが志村近辺に設定されたのは、同地には1970年代初頭まで小さな町工場が密集し[117]、過激派や学生運動の闘士が多く住んでいたことによる[117]。大城浩(織田あきら)が売血するシーンは、佐藤の学生時代の実体験で[117]、1970年代初頭までは、貧乏な者がまだ売血で金を得ていた[117]。

ひかり109号
車両のミニチュアは1台1メートルあまりあり[37]、12両編成で12メートル、これを2セットで計24両製作し、2,000万円の費用を要した[24]。東映の「紡錘形を作らせたら日本一」といわれる美術担当者が、新幹線特有の紡錘形を再現した[24]。新幹線などのミニチュアの実製作は、長らく映画・テレビの特撮作品で金属模型を手掛けた郡司製作所が担当した。撮影所正門反対側の中庭260平方メートルに線路を敷いたオープンセットを建設[118]。線路は全長50メートル[6]、150メートル[53]、300メートル[105]と文献によって長さの記載が異なる。特撮シーンは特殊技術の成田亨によるもので、新幹線のミニチュアは自走式ではなく、小型のスキージャンプ台のように30度の傾斜をつけて走らせ撮影した[6][37][118]。当時、このミニチュアが大変話題になり、宣伝部はここぞとばかりにパブリシティを展開した[67]。この新幹線と線路のミニチュアは、のちに『ウルトラマン80』でも使用されており[119]、ひかり109号が爆破されるイメージカットは東映の特撮ドラマなどにも流用されている。爆破シーン以外でも『大鉄人17』で新幹線ロボットの登場する前後編(第18話・第19話)などで流用された。背景の都市はミニチュアではなく、ビルのモノクロ写真を引き伸ばしてパネルに貼り付け、着色したものである。これは成田の発案で、限られた予算内で撮るためのアイデアの1つだった。この特撮のため、1日のレンタル料が100万円だった当時最新鋭のシュノーケルカメラを借りている[53]。シュノーケルカメラはそれまでCMでしか使われたことがなく[27]、同カメラを使用した映画は本作が初めてといわれている[24][27]。2年後、本作と同じカメラが『スター・ウォーズ』で使用されたという[53]。これらミニチュアの新幹線と実際の新幹線を撮った映像を組み合わせ[53][105]、迫力のある走行シーンを撮り上げた[24]。

『新幹線大爆破』『東京湾炎上』と邦画のパニック映画大作が世間でも大きな話題呼んだため[120]、1975年5月23日に東映、同月27日に東宝がバスをチャーターし、それぞれマスメディアを集めて、本社前集合から大泉、砧へ撮影見学会が行われた[111][118][120]。道中、幸田清東映東京撮影所長から丸1年を要した製作苦心談や、ミニチュアの新幹線が近所の子どもたちの評判を呼び、見学希望者が殺到した[111]。丁寧に断ってはいたが、子どもたちが撮影所内に侵入してミニチュアの新幹線にいたずらしようとするため、ガードマンを付けているなどの説明があり[120]、現場では新幹線ミニチュア(新幹線東映号)や特設レール建設の細かい説明のほか、爆弾が仕掛けられたひかり109号に救援車が近づく実際の撮影シーンや[118]、ラッシュ試写も披露された[111][120]。高倉と宇津井が新幹線の模型を持つスチル写真は[37]、この日のセット撮影の合間を縫って2人がここを見学した際に撮影されたものである[118]。高倉は「パニック映画というより人間ドラマです。素晴らしい映画に参加できてうれしい」宇津井は「子どもが見に来たがって困ってるんですよ」と話した[118]。

前述のように東京撮影所の近所の子どもたちから「ミニチュアの新幹線を見せて欲しい」と要望が殺到したため[111]、幸田東映東京撮影所長が「子供たちの夢を叶えてあげたい」と、1975年6月15日に撮影所を開放して撮影会を開催[121][122]。カメラマン2,000人が参加した[121][122]。

新幹線の爆破シーンは1975年6月20日、東京撮影所の野外オープンセットで行われ、報道陣にも近距離からの撮影を許可した[123][124]。リハーサルなしのぶっつけ本番とあって慎重に慎重を重ねて準備し、予定を2時間オーバーした[124]。本番1回目は爆破が遅れ、報道陣が近寄った際に突然爆破し、カメラを担いで逃げ出すハプニングもあった[123]。2回目は予想外に火力が大きく、周辺に植えられていた木々に燃え移り、撮影所の消防車が出動する騒ぎになった[123]。

新幹線車内は材料の質感が本物そっくりに出ないと作品が全部絵空事になるという判断から、ベニヤ板でセットを組まず、当時実際に国鉄へ納入していた日立製作所や東芝などから実物の椅子や壁面、網棚などを発注して原寸大の車内を再現した[8][15][52][53][72]。これに手間と時間がかかり、撮影が遅れる一因になった[24]。後日、協力した各社は国鉄から怒られたという[53]。本物そのままのセットは5年間保存され、新幹線の車内が必要なテレビドラマ『新幹線公安官』などに使われ、そのレンタル料で元を取った[52][53]。

司令室も内部の写真の提供を拒否されたため、美術監督が見学者を装って司令室に潜り込んだと書かれた文献もあるが[6]、2002年のトークショー以降は佐藤が「国鉄は外国人に弱いから日本で無名の外国の俳優をドイツの鉄道関係者に仕立てて、全部盗み撮りしてきた」と話している[8][52][53]。映画での司令室のCTC表示板は、起点である東京駅が本来は左側であるところが右側となっているが、これは映画進行上のイマジナリーラインを右から左としているための意図的な演出である[27]。ただし、本来の表示の左右だけを反転させて上下を反転させていないため、表示と実際の線路配置とでは左右(上り線と下り線)が逆になっており、CTC表示板でのひかり109号が停車している東京駅19番ホームの位置と実際に19番ホームを発車するひかり109号の映像の間に、矛盾が生じている。

当時の実際の「ひかり109号」は、東京駅を9時48分に発車して博多駅に17時36分に到着する、いわゆる「Aひかり」と呼ばれる列車であった。途中停車駅は名古屋、京都、新大阪、新神戸、姫路、岡山、岡山から先の各駅であった[125]。   

クライマックスシーン
東京国際空港(羽田空港)でのクライマックスシーンは、最終発着の終わる夜の22時から翌朝の5時前まで、貸切での撮影が行われた[25]。搭乗ゲートでの細かいやりとりのシーンは重要な芝居を要求されるため、後日セットで撮影したが、エキストラ数百人を使った搭乗ゲート付近や滑走路、埋立地などの撮影は実際に羽田空港で夜間の7時間にすべて行った[25]。ワンシーン終えるごとに機材を移動していたのでは間に合わないため、それぞれ4班体制でライティングやテストの準備を終え、スタッフ、キャストが移動する方式であった[25]。夜間撮影のために用意された機材は膨大な数にのぼり、機材車や電源車だけで十数台、エキストラ数百人を乗せたロケバスとあわせて、夕暮れに羽田に向かう道に延々と何十台もの車列が続き、B班助監督だった佐伯俊道は「ああ、この撮影所も長いことないのかもしれないなァ」とその時は思ったという[25]。正規スタッフによる段取りは手際よく、夜明け前に撮影は完了し、朝8時に撮影所に到着した。東映東京ほぼ総出による共通体験をこなした喜びから、朝にもかかわらず、所内のあちこちで酒宴が開かれた[25]。

1975年6月24日、クランクアップ[56]。

音楽
公開当時、サントラ盤は主題曲とスキャットのシングルのみ発売された。その後、バップからライナーに作品解説も含むCDが発売された。

劇中で流れた既製の楽曲のうち、沖田が爆弾の図面の入った封筒を預けた喫茶店サンプラザで流れていたのは、松平純子の「両国橋」(作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)。沖田が分け前の発送作業をしたモーテルで部屋のテレビから流れていたのは、浜田勇の「怨み唄」(作詞:佐藤純弥、作曲:野田ひさ志)。1996年(平成8年)10月2日にバップよりJ-CINEサントラコレクションシリーズの一作としてサントラCDが発売された[126]。なお、劇中に流れる青山八郎の音楽は、1977年(昭和52年)の東映実録ヤクザ映画『日本の仁義』に転用されている。


『鉄道ジャーナル』における批判
本作品はドキュメンタリーでも教育映画でもなく、娯楽映画、フィクションであるため、自由な発想で作っても何ら問題なく、本来正確性を追求される筋合いのものではないが、鉄道雑誌『鉄道ジャーナル』1975年10月号では、設定や鉄道の設備関係の扱いに誤りが多すぎると酷評された[18][26]。5ページにわたる批判のうち、1割程度「娯楽映画としてはよく出来ているが」と評して「作品としてはなかなかの力作、製作費5億円余円はちょっとオーバーで、それにしてはチャチだが、国鉄の協力なしに作った鉄道映画としてはよくできている。スジの展開やスリル、画面には満足した人も多かったようだ。取材した人すべてが、鉄道と映画の専門家、レールファンを含めて異口同音に『なかなかよくできた面白い映画だ』と言っている。ただし、最近の日本映画としては、国鉄の協力なしに自力で作ったにしては…の条件付きではあるが。『よくできていますよ。国鉄のPR映画にしてもいいくらいレールファンにもお薦めできます』(嶋地孝麿『蒸気機関車』編集長)」などと褒めている[26]。

しかし、残り大半は同誌編集長の竹島紀元が「国鉄は協力してないから盗み撮りは法に触れる。道義上許せないこと。マネする人が出るだろうし、困ったこと」などと話し、これが編集方針となったようで、神奈川新聞が指摘するように新幹線を極端に擁護する批判記事を掲載した[18][26]。主な批判は以下の通り。

総合指令所の列車位置を表示する大型路線図の左右が逆
先行のひかり号の故障のシーンで、大型路線図内の位置表示の点滅が赤色になる機能はない
浜松駅で上りひかり20号通過直後の切替えポイントを遠隔操作で切替えるが、列車が転轍機手前9km以内に入ると「列車接近鎖錠」により遠隔操作できなくなり、通過後も9km以上離れるまでは「列車通過鎖錠」によって遠隔操作を受け付けないので、あの時点で上り線には入れず先行のひかり号に衝突してしまう
上り線を逆に走るときは、「伸縮継目を逆に走る場合の速度制限70km/h」によってブレーキが掛かり、爆発する
各駅や地点の通過時間を東京-博多間の距離を(運賃・料金計算に使用する)営業キロで計算して算出している。実キロ(実際の距離のこと)は100km以上短い[注釈 12]ので、実際におきたら1時間以上前に博多について爆発してしまっている[18][26]。

没となった設定・エピソード
1975年3月時点での脚本では、乗客に甲子園遠征に向かう長嶋監督ら巨人ナイン、名古屋場所へ向かう北の湖、人気歌手の西城秀樹も乗り合わせたという設定だった[69]。

当時市販された映画の台本集[要文献特定詳細情報]には、浜松の故障車発生での上り線移動のシーンの次に岐阜羽島付近の変電所のトラブルで送電が停止してしまってひかり109号も速度が落ち始めるシーンが入っていたが、公開された映画ではカットされていた(故障が直らないので電気指令長が係員に隣接の変電所から緊急送電させろと指示するが、トラブルの影響でその変電所からも送電は出来ないといわれ、さらにその隣から緊急送電させろと指示し、その2つ隣の変電所からの緊急送電に成功したおかげでギリギリで送電が再開されて九死に一生を得るというような内容だった)。

評価と影響
初公開時
佐藤監督は完成の遅れで試写会が開催できなかったと話していたが[52]、実際にはわずかながら試写会は行われた[163][204][205]。荻昌弘は「『新幹線大爆破』は、いまの邦画水準で、よく作られた娯楽作品だと認めていい。乗客が烏合の衆にさせられている類型描写とか、衝けば弱点は指摘できるが、国鉄不協力のなか、これだけ周密に一つのメカニズムの機構と機能にアプローチして劇の濃度を高めるとは、作り手の気力と根性の密度以外のものではない。ここにはあの『警視庁物語』の東映の伝統、以上に一編に賭ける誠意がある。脚本と演出は、管理体制から疎外された犯人像の設定に無声時代劇以来の暗い日本映画の心性が生きており、これが終盤に大写しにされる政府・国鉄の冷血なエゴイズムと対応して、作品を重く沈ませたのが一家言である。『東京湾炎上』はせっかくの発想を映像に活かしたとはいいかねる...後味いいとはいいかねる力作二本ながら、後味の悪さの質は違う二本であった」などと評している[204]。

『週刊明星』1975年7月27日号の作品評では、 大黒東洋士が「面白かった。『天国と地獄』みたいな迫力を感じた」、深沢哲也が「話の手口は『ジャガーノート』に似てるが、最近の日本映画じゃいい方です」、穂積純太郎が「ちゃちな感じがなくて、予想以上の出来ばえです。しかし2時間半は長い」などと評した[205]。

『映画芸術』1975年10~11月号では「あらゆる可能性あるデータを集めてスリルを次々と構築し、密度が高くて、飽きることないばかりか現実政治に対する誠実さの警告や思想がある。『ポルノの帝王』などを書いていた小野竜之助の脚本も持ち上げるべきである」などと評した [163]。

封切時に新宿東映で本作を観たという町山智浩は、「お客は入ってました」と話している[8]。また、本作が長いので併映のずうとるびは観ないで帰った、「見とけば話のネタになったのに」などと話している[8]。


佐藤は本作をわずか5週間で撮り終えた実績から「佐藤監督に預ければ、ちゃんと予算と時間内に収めてくれる」と評価され、徳間康快や角川春樹から大作を任されるようになり[8]、アクション大作の専門監督としての道を歩むこととなった[8]。

『関根勤が本作品の大ファンであることを公言しており[10][198]、管制室の倉持(宇津井健)の「青木君、車を停めるんだっ!」、運転席の青木(千葉真一)の「何を言ってるんですかぁっ!」などのやり取りを関根が1人2役で演じるものまねを[10]、TBSラジオ『コサキンDEワァオ!』等で披露している[8][10]。

杉作J太郎は「大作映画は俺の印象では20対19のスコアのカープ対ドラゴンズ。野手はモチロン投手に至るまで、ベンチ入りしてる選手は全員出場。佐々岡のあとに前間が出てきたり、翌日の試合のことは考えず、やたら点が入ってハデだが試合内容は褒められない。俺はそ~した騒ぎが面白くてたまらないクチで、俺の論旨としてはそれが『新幹線大爆破』ということになる。これは東映が突然世に問うたパニック超大作であった。すでにテレビの時代と見なされていたかもしれないが、テレビドラマでは到底不可能な豪華キャストだった。俺は指折り数えて公開日を待ったものだ。その中で注目すべきが志穂美悦子だった。当時の志穂美はそれは若者の憧れの的で、俺もブロマイドショップで彼女の写真を買い漁っていたのであった。さてところが、フタを開けてビックリの『新幹線大爆破』の志穂美は何と電話交換手。冒頭、わずか3秒の出演。ポスターには空手のポーズで載っていたのに...。俺も青かった。どういう形でこの電話交換手が物語にリンクしてくるのか、新幹線の中で暴漢が暴れ始め、その鎮圧に『誰か武道のたしなみのある者はおらんかね?』『ハイ、私、空手やります!』と志穂美が挙手して新幹線に乗り込んで来るのか? あれやこれや想像しつつ、多岐川裕美がどこに出てるか分からないままエンディングになった。いや~これが大作というものなんだろうなァと大満足の映画でした」などと評した[209]。

『星の金貨』などの脚本家・龍居由佳里は1975年、高校在学時に父が東映で美術の仕事をしていた友人と新宿東映で本作を封切時に観て大興奮し、「私、東映に入って映画作る仕事がしたい!どうすれば入れるかお父さんに聞いて!」とその友人に迫った[210]。しかし、「東映は女性の現場スタッフを採らない」などと聞いて東映への就職は諦め、スタッフを募集していたにっかつ撮影所に就職したが、「『新幹線大爆破』を観て感動し、映像の仕事に就きたいと思いました」と言うと、龍居の作風のイメージと合致せず、後年に至っても驚かれたという[210]。

ウルトラシリーズなどの脚本家・川上英幸も「中学のころ、『新幹線大爆破』をテレビで初めて見て、その面白さに吸い込まれ、映画とは恐ろしいものだと寒気すら感じた」と話し、特に運転士役の千葉と総合指令職員役の宇津井の熱いやりとりに感激し、将来的に新幹線に関わる仕事がしたいと昭和鉄道高等学校に進学した。しかし在学中に国鉄分割民営化を迎え、新人の入社がストップしたことで目の前が真っ暗になった。やる気をなくし、学校が池袋にあったため、学校をさぼり文芸坐に入り浸るようになった。当時は家庭用ビデオが普及し始めのころだったが、文芸坐は学割600円で2本立てが観られた。高校を卒業し、印刷ショップに就職した後、レンタルビデオショップの店長に転職。23歳の時、ぴあの作家募集に応募したことがきっかけで脚本家になった。「人生とは実に不思議なものだ。あのとき『新幹線大爆破』を見ていなければ、今の私はいないし、そう思うと罪作りな映画だと思う。金を儲けたいならもっと多くの職業があったが、その選択を人生から外されてしまったからである」などと述べている[211]。

2015年の映画『天空の蜂』の脚本家・楠野一郎は、同作の脚本化にあたり、エンターテイメントとメッセージ性の両立を目指して、本作を目標の一本として脚色した」と述べた[212]。

西川美和は「コンプライアンスなどどこ吹く風の大傑作」と評した[213]。「『七人の侍』や『太陽を盗んだ男』や『仁義なき戦い』や『新幹線大爆破』みたいな、めちゃめちゃなことをして作った、めちゃめちゃな迫力の映画を観て打ちのめされて、映画の世界に入って来たスタッフは、もう二度とそのような興奮には出会えないことを覚悟してもらわなければなりません」などと述べた[213]。

以上Wikipediaから引用
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    キッチャン

    キッチャン

    スティーブ・マックィーンとハワイと50sとハワイアンシャツが好きな1958年生まれの50s端っこ生まれです。I was born in 50s born in 1958 born like Stev…

    スティーブ・マックィーンとハワイと50sとハワイアンシャツが好きな1958年生まれの50s端っこ生まれです。I was born in 50s born in 1958 born like Steve McQueen, Hawaii, 50s and Hawaiian shirt.