“Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again”があふれだすように流れ、ニューヨークのアンダーグラウンド(地下鉄)から街へ、そして、どこか中西部を走る貨物列車へとカットがつなげられていく冒頭からして最高。
トッド・ヘインズ監督による、6人の俳優がボブ・ディランらしき6人の人物を演じたフィルム。ウディ・ガスリーを名乗る黒人の少年、ランボーを名乗る白人の青年、プロテストシンガーのジャック、結婚生活が破綻している有名俳優ロビー、破滅的なロックスターのジュード、老いて隠遁したカウボーイのビリー・ザ・キッド……。擬似インタビュー映像もさしはさまれる。オムニバスのような建てつけだし、実際、オムニバスのようではあるのだが、自由自在に切り貼りされた編集によってそれを感じさせない。てんでばらばらなのに、一本のフィルムになっている。
ボブ・ディランというひとは、一貫性がなく、アイデンティティが常に揺れ動き、みずからどんどん別のものに変化していく。ディランの歴史は、単線的な進化ではなくて、ただほかの何かへの変化だけがあり、だからこそ捉えがたい。そのディランの曖昧で分裂したアイデンティティを、『アイム・ノット・ゼア』という映画は、見事に映像化している。年齢や時代も、史実も、人種も、ジェンダーも超えて。
ずっとクライマックス、ずっとラストシーン、みたいな映像が最後まで続いていく。奇想と諧謔に満ちた映像演出によって誇張されたイメージは、幻惑的に飛躍し、幻覚的に飛翔する。着地はしない。青み(寒色)が強いロビーのパートやモノクロのジュードのパートなど、映像のルックも多様。地に足ついているのは、ディランの歌くらいだ。
「ボブ・ディラン」という名前はいっさい登場しないものの(ただし、最後にだけ、なぜかハーモニカを吹いている映像が挿入される)、『ドント・ルック・バック』や『ノー・ディレクション・ホーム』の完コピに近い引用は多々あって、実際のディランのエピソードをかなりつかっている。もちろん、それだけではなく、ディランのifにもなっていて、たとえば、キリスト教に目覚めて牧師になるジャックのことは、1979〜1981年、ボーン・アゲイン・クリスチャンに改宗した時期を誇張したもの。
特にいいのが、ビリー・ザ・キッドのパートで、これだけで一本映画を撮ってほしいくらい。『天国の門』のような世界の村が描かれているが、あれは『地下室』のジャケットとローリング・サンダー・レヴューの引用なのだろう。舞台で演奏するシーンがすばらしすぎる。
それにしても、若きベン・ウィショーからクリスチャン・ベイル、ヒース・レジャー、ケイト・ブランシェット、リチャード・ギア、シャルロット・ゲンスブール、ジュリアン・ムーア、ミシェル・ウィリアムズと、俳優があまりにも豪華すぎる。なかでも、ケイトの演じぶりは最高。