ミーマ

MAY -メイ-のミーマのネタバレレビュー・内容・結末

MAY -メイ-(2002年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

私はこの映画を他人事として見れなかったので、今回はかなり個人的なレビューになることをあらかじめ了承していただきたい。

この映画を観終わって、思い浮かんだのは、ザ・フーのアルバム、『Tommy』の作中で随所に登場するフレーズ。

「See me, feel me, touch me, heal me」
(私を見て、私を感じて、私に触れて、私を癒して)

生まれつき片目が弱視で、友達ができなかった主人公、メイに初めて現れた友達、それは、ガラスのケースに入ったスージーという奇妙な人形。母親からのおさがりで、「ガラスのケースは絶対に開けるな、特別だから」と告げられる。この一言で母親の狂気を表現したのはうまい。親友なのに、ガラスの奥からぼんやりとした目で一点を見つめ、直接触れることもできない親友のスージー。次第に、人間の親友を見つけたいと思ったメイは、アダムという男の人と出会う。

私自身生まれつき片目が弱視で、小中と友達はいなかったし、唯一話せるのはぬいぐるみたちだった。ガラスのケースには入ってなかったし、直接触れられたけど、それに暖かみはなかった。物語の設定の段階で、私はメイに自分を投影することを避けられなかった。高校に入ってから、一緒に行動する人はできたが、入れ替わり立ち代わりという感じだった。だから、必要以上にメイに共感してしまったのかもしれない。そう、愛されたいんだよね?ありのままの自分を、受け止めてほしかったんだよね?

この映画で特に重要なポイント、それは「手」と「目」である。アダムの手に異常な執着を示すメイ、何度も出てくる公園で遊ぶ盲目の子供たち。目を見て話す、相手に触れる、これらは信頼関係に基づいて生まれてくる。信頼は、相手を受け入れることから始まる。「変人は好きだ、タイプだよ」そうメイに語ったアダム。アダムも傍から見たらある意味変人だ。部屋には壁一面にダリオ・アルジェントのポスターが貼ってあり、自主映画もポップでコミカルながらアルジェントに影響を受けた変態的でグロテスクなものだ。純真なメイは、それらも簡単に受け入れることができた。だが彼女は純真過ぎたのかもしれない。ちょっとした勘違いでとったメイの行動を、アダムは受け入れられなかった。木に触っている女の子を見て、「なんであの子たちはなんでも触っているの?」とメイ。「目が見えないからだよ」とアダム。触れてほしかったメイは、盲目の子供たちを預かる施設の手伝いをかってでる。しかし、彼らもメイには触れてくれなかった。唯一信頼していたガラスの中のスージーを紹介するが、それも子供たちによって破壊されてしまう。メイは心のよりどころをすべて失ってしまった。

スプラッターシーンは映画の終盤にしか出てこない。しかも、グロテスクさは割と控えめだ。だが、人体破壊、そしてそれらの接合のシーンで大粒の涙が流れた自分に驚いてしまった。メイは、ただ愛されたかったのだ。自分のことを見て、自分に触れてほしかったのだ。すべてのパーツが完成したかに見えた時、メイは気づいてしまう。「私が見えないの?」自分を見て触れてくれるはずだった、完璧なはずだった友達作りは、結局完ぺきではなかったのだ。あまりにも悲痛すぎるメイのとった行動。私はどうしてもあふれ出る感情を抑えられなかった。

映画の本当に最後の最後のシーン、メイは救われたのだろうか?自分に触れ、自分を見つめ、愛してくれる友達を見つけたのだろうか?あまりにも大きな絶望と、ほんのりとした希望が同居するシーン。私は、メイは救われたと信じたい。
ミーマ

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