本作の公開が1942年。冷戦の契機となるヤルタ会談が1945年。時代背景を頭に入れておくと、この作品の公開がいかに危ういタイミングであったかがわかる。
作中全体に資本主義の盲信への批判精神が散見される。実際主人公であるケーンは逸話を描かれる一方で、共産主義者だとかファシストと罵倒される。貧困層にも手を差し伸べる彼を共産主義という対岸に置くことで、上流階級のみこそがアメリカ市民であるとでも言うような資本主義は批判され、資本の再分配への思考を余儀なくされるのだ。
公開当時も資本共産の対立とは別の理由から妨害運動が展開されたらしいが、さらに数年遅ければこの作品はお蔵入りになっていただろう。
撮影技法については当時のインパクトは計り知れないが、そういった技巧の発展の功績は監督に帰されるべきだと思うのでそこでは加点しない。しかしながら合わせ鏡だとか、モノクロ写真から現実世界の連結だとか、今なお卓越していると言い切れる演出もある。
映画製作を志す人間にこそ尊ばれ、テクニカルなことに頓着しない現代の一視聴者達にはそこまで響かないかなといった具合だ。