映画漬廃人伊波興一

ホームワークの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

ホームワーク(1989年製作の映画)
4.3
(素描)という単語そのものが、おのれの意味を改めて問い直すに違いない。

アッバス・キアロスタミ
「ホームワーク」

(今回のレビューはやや口語調でいきます。)

当たり前ですが、例えば画家は(富士山をありのまま描くため)に絵筆をとっているわけではありません。

カメラマンだって(富士山をありのまま写すために)にシャッターを押しているわけではありません。

(自分の中にしか存在し得ない富士山を生成させるため)に富士山を見つめ、絵筆をとり、シャッターを押しているのです。

ふたりの某画家、某カメラマン、まあ仮に佐藤画伯と鈴木画伯、そして田中カメラマン、山本カメラマンという人がいたとして、彼らが手掛ければ、被写体が富士山ひとつであっても、全く別の、それぞれの富士山が誕生するわけですが、では佐藤画伯と鈴木画伯らが描いた、そして田中カメラマンと山本カメラマンらが撮った富士山の間には、どのような差異が存在するのか。

技術的な優劣を問う前に私はやはり被写体とのコミニケーション能力次第だと思っているのです。

一体富士山とどんなコミニケーションを取るんだ?と訝る向きもおありでしょうが、そう言われてもやはり存在すると思うのです。

コミニケーション能力は何も言葉や肉体、聴覚や味覚に第六感といった人間や鳥、動物、超人に備わっているものばかりでなく、画家であるが故に、あるいは写真家であるが故に、そして映画作家であるが故に被写体と図れるコミニケーションという意味に於いてです。

それが常に円滑であるとは限らず、時には険悪であったり、時には従属的であったり、あるいは支配的であったりもします。

いずれにせよ、その被写体が描きたい、撮りたい、といった願望めい存在ではなく、描かずにおられない、撮らずにおられない存在である事。
その事を本能的に心得る事がコミニケーション能力を備えている事を意味するのです。

相手が人間であろうが、動物であろうが、大自然であろうが、建築物であろうが、それらが炸裂した瞬間を捉える事は、やはりコミニケーションを図る能力が無ければ絶対に無理だと思うからです。

ところが、その画家が、その写真家が、そしてその映画作家が渾身の力で作り上げた作品が時として未完成のような印象を残してしまう事が実は少なくないんですね。
どなたにも必ず覚えがある、描き切るのではなく、明らかに敢えてここで止めている、という印象の作品です。

それは、描いてならない、撮ってはならないものの境界ギリギリまで迫りながら、あと一歩で慎みを失うその直前で見事に立ち止まってしまうからであって、これだってやはり被写体とコミニケーションを図れる作家にしか備わらない術だと思うのです。

そんな作家独自のコミニケーション能力で描く事を、今はひとまず(素描)と呼んでおきます。

前置きが長くなりましたが
アッバス・キアロスタミが1985年に撮った「ホームワーク」(最初は"宿題"というタイトルで紹介されていたと記憶してます)はまさに(素描)の映画としか思えないのです。

テヘランで、宿題をしてこなかったジャヒッド・マスミ小学校の生徒へのインタビューを主軸に綴られていますが、キアロスタミがここで何をしているのはやはり、コミニケーションを図った(素描)であるわけです。

それはありのまま撮っている、という意味でなく、大丈夫だ、と思われていたものが、やがては大丈夫でなくなる時が必ず来るように、ありのままの状態が均衡を崩した時にしか見えてこない生徒たちの言い分や表情の真実を、時には正面堂々と、時には裏側から掠めとり、画面の輪郭におさめていく、という意味です。

モニタリングが目的なら隠しカメラで充分ですが、(素描)は作家独自のコミニケーション能力がなけれは絶対に成立しません。

これはドキュメンタリーでも劇映画でも同じ事ですから、私たちが映画において両者を区分する事に大きな意味を感じないのもそうした理由によります。

もし広辞苑に載っている(素描)という単語そのものが自我に目覚め、この「ホームワーク」という映画を観れば、おのれの意味を改めて問い直すに違いない、と思うのです。