サマセット7

パルプ・フィクションのサマセット7のレビュー・感想・評価

パルプ・フィクション(1994年製作の映画)
4.8
監督・脚本・出演は「レザボアドッグス」「ジャッキーブラウン」のクエンティン・タランティーノ。
主演は「サタデーナイトクラブ」「フェイスオフ」のジョン・トラボルタ、「ダイ・ハード」シリーズのブルース・ウィリス、「ダイハード3」「アベンジャーズ」のサミュエル・L・ジャクソン、「キル・ビル」のユマ・サーマン。

レストランで強盗の相談をしているカップル、パンプキンとハニーバニー。
組織から盗まれたブツを取り返しに行く、殺し屋コンビ、ヴィンセント(トラボルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)。
組織のボス・マーセルスは、賭けボクシングで儲けるため、ベテランボクサーのブッチ(ブルース・ウィリス)に八百長を依頼する。
マーセルスの妻ミア(ユマ・サーマン)には、ミアの足をマッサージした男が、それだけの理由でマーセルスに再起不能な目に合わされたという噂がある。
ヴィンセントは、マーセルスから、そんなミアの暇つぶしの相手を命じられ、動揺を隠せない。
今作では、複数の低俗な物語(パルプフィクション)が描かれる…。

クエンティン・タランティーノ監督の2作目の長編監督作品。
カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)獲得。
アカデミー賞7部門ノミネート、脚本賞獲得(同年の作品賞はフォレストガンプ)。
800万ドルで製作され、2億ドルを超える大ヒットとなった。
批評家、一般層共に、極めて高く評価されている。
90年代最高の作品に挙げる評者も多く、オールタイムベストランキングにしばしば選出される。
例えば、Amazonが運営する映画情報サイトIMDBでは、全映画の中で8位のレイティングとなっている(1位は「ショーシャンクの空に」)。

今作は名作中の名作だが、かなり変わった独自の作風のため、好みが分かれるとか、分からない人は分からない、という言い方をされることがよくある。
正直、私も、初見時はピンと来ていなかった記憶がある。
今回鑑賞した感想は、強烈!!!快感!!!最高!!!!であった。

ジャンルは、クライム・スリラーだが、オフビートなブラック・コメディの要素も強い。
アクション要素やサスペンス要素も多分に含む。

今作は、プロローグとして、強盗カップルの駄話と、殺し屋コンビの駄話(と「仕事」)が描かれた後、3章の短編とエピローグが描かれる、という構成になっている。
第1章は、トラボルタ扮する殺し屋ヴィンセントが、ボスの妻ミアの暇つぶしの相手として、夕食を共にする、という話。
第2章は、組織のボスに八百長を依頼されたブルース・ウィリスが演じるボクサーが、逆に試合相手を殺してしまって逃走する、という話。
第3章は、殺し屋コンビが、プロローグの後、思わぬトラブルに巻き込まれて、悪戦苦闘する話、である。
各章の順番は時系列どおりではなく、作中で説明もないため、観客は、各描写や映像から、各パートの順番や位置付けを推測することになる。

今作は、前作同様、タランティーノの作風が炸裂した作品である。
すなわち、本筋と一見関係がない、奇妙で独特の味わいのある会話劇。
すなわち、古今東西あらゆる映画からの引用を駆使した、スタイリッシュ、オフビート、バイオレンスな演出と映像表現。
すなわち、時代を横断する、的確な音楽使い。
すなわち、時系列を入れ替えた、入り組んだ作品構造。
どれも素晴らしいし、革新的だ。

これらのタランティーノの作風を前提にしつつ、今作を映画史に残る傑作たらしめているのは、何か。
私が考えるに、その所以は3つある。

1つは、今作の、際立って強烈な印象を残すシーンの数々である。
優れた作品には、脳裏にこびりついて離れないような、強く印象に残るカットやシーンがあるものだ。
例えば、羊たちの沈黙の、レクター博士とクラリスのクローズアップで撮った表情の切り返しで構成された対話シーン、そのレクターの目。
例えば、セブンの、ラストの空撮から始まる一連のシーン。ブラッド・ピット。
例えば、マッドマックス怒りのデスロードの、慟哭するフィリオサのカット。

こうした、奇跡的なショットやシーンは、1作品に1つあれば、それだけで作品を成功させるものだが、今作には、そうした奇跡的なシーンが、私の見るところ、少なくとも3つはある。

奇跡のシーンその1は、プロローグの2つ目のエピソードで、サミュエル・L・ジャクソンが演じるジュールスが、ブツを盗んだ若者を詰問するシーンである。
ジュールスは、世間話でもするかのようにどうでも良い話をして、かと思いきや、唐突に過剰な暴力性を発動させる。
この、次に何をするかわからない怖さと、オフビートな笑いの混合!!!!
セリフ回しも最高だが、旧約聖書の一節(実際にはエゼキエル書とは一部しか一致しない)を暗誦しながら、どんどんヒートアップしていく、サミュエル・L・ジャクソンの表情!!
その大きく見開かれた、凶悪な眼!!!!
若者らやヴィンセントのリアクションも含めて、最恐にして最凶!!!
強烈の一言!!!!

サミュエル・L・ジャクソンは、今作の演技で遅咲きながらブレイクし、押しも押されもせぬビッグネームとなる。
それも納得の名演である。

奇跡のシーンその2は、ヴィンセントとミアのチークダンス。
この2人のエピソードである第一章は、どのシーンも最高なのだが、トラボルタとユマ・サーマンのダンスシーンは、キレのある動き、没頭した表情、2人の気持ちが危険な域に通い合う暗喩も含めて、まさに奇跡的なシーンとなっている。

かつてサタデーナイトクラブでスターだったジョン・トラボルタは、今作で俳優として再起を果たす。
今作の演技の数々は、イロモノ俳優にできるものではなく、彼の豊かな才能が迸る。

ユマ・サーマンの人智を超えた危険な美しさも凄まじい。
タランティーノのフェティズムあふれる撮影と演出もそれを引き立てる。
唇を映すイヤラシイショットの数々!!!
美脚への変質的なこだわり!!!

奇跡のシーンその3は、第二章にて、ブルース・ウィリスが「とある武器」を持って、危機に立ち向かうシーンである。
人物の背後に立つ、武器を持ったブルース・ウィリスのカット!!!
タランティーノ的なジャンルミックスの極地!!

3つのシーンとも、作劇の必然というよりも、監督の趣味で入れたシーンが、偶々とんでもないことになった、という類のものであろう。
それゆえにか、観ていると、予想外に理解を絶するモノが始まるという刺激がある。

私の考える、今作が傑作である理由の二つ目は、今作が繰り返し、キャラクターが抜き差しならない修羅場に巻き込まれる様を活写している点にある。
映画の本質が、「高みの見物」にあるのだとすれば、修羅場において必死に足掻く者の姿ほど面白いものはない。
まさしく、今作の各エピソードで語られる修羅場は、いずれもその客観視点から見た滑稽さと、当事者の追い込まれた事態の深刻さが両立している。
このバランスは、精緻に計算されたものである。
例えば、殺し屋という職業や、指一本触れれば殺されるという噂の組織のボスの妻、とんでもない場所に秘蔵されていた父の形見、繰り返されるトイレの描写など、非現実的で可笑しな要素が配置される。
メインキャラクターの多くがいずれもカツラをつけている点も可笑しみを覚えるが、この文脈で理解できる。
他方で、各キャラクターが追い込まれる「のっぴきならない」状況は、語り口のスマートさや演者の自然な演技も合わさって、極めて危機的なものである。
ユマ・サーマン演じるミアの絶対に手を出せないのに、奔放で魅力的、というキャラクター、あるいはブッチの恋人ファビアンの可愛いけど…というキャラクターは、いずれも修羅場の醸成に一役買っている。
この、ハラハラドキドキワクワクニヤニヤという感情のカオス!!!
これをよくわからないと流してしまうのはもったいない。
快感を感じるようになれば、立派なタランティーノ症候群である。

私の考える、今作の傑作たる所以の3つ目は、意外にもしっかりとしたメッセージ性がある点だ。
前作は古今の作品からカッコいいシーンを収集サンプリングした、映画の悦楽だけで作られた作品であり、そこにこそ、面白さや革新性があった。
今作にも古今東西の作品からの引用は数知れないが、さらにその上に、一本の芯となるテーマがあるように思われる。
それはすなわち、善くありたい、という意志があれば、行動も結果も良い方向に変えられる、という希望であるように思う。
第3章からエピローグにかけてのジュールスの変化とその結果、あるいは、第2章のブッチのある決断に伴う状況の変化は象徴的だ。
他方、同じきっかけとなる事象を体験しても、ジュールスとヴィンセントとで全く異なる受け止め方をして、その結果、両者が至る顛末は示唆的である。
どんな状況にあっても、意志があれば、人は変われる、というメッセージは、倫理道徳的に至極真っ当なものである。
こんな訳の分からないぶっ飛んだ映画を撮りながら、そのメッセージが、マトモ、というのも面白い。

初見時の私は、今作を面白いとは思ったが、あまりにオフビートで独特の内容に面食らい、好きな映画のリストに入れるところに達しなかった。
その後、年月が経ち、今では今作は個人的に大好きな作品となった。
これは、今作がスルメ的な作品であることもあろうし、私がそれなりに経験を積んで、危機に対峙したキャラクターの心情に共感できるようになったこともあるのかも知れない。
あるいは、いつのまにか、今作の各シーンで感動できるアンテナができていた、ということなのかもしれない。

今の私が、時を超えて初見時の私にアドバイスを送るとすれば、映画の教材として見るな、低俗なパルプとして気楽に楽しめ、ということだろうか。
そして、一つ一つのシーンを、フラットな気持ちで、じっくり味わえ、ということかもしれない。

タランティーノの代表作にして、刺激的で、低俗で、掘れば掘るほど深みのある、名作にして傑作。
それにしても、ハーヴェイ・カイテルが演じるタキシードに蝶ネクタイの掃除屋と、タランティーノ本人が登場する第三のエピソードの、作劇上の意味は一体何なのか。
多分、意味などないのだ。
分かった気がしてもやっぱり分からない、その幻惑性もまた、今作の大きな魅力である。