サマセット7

レイジング・ブルのサマセット7のレビュー・感想・評価

レイジング・ブル(1980年製作の映画)
4.0
監督は「タクシードライバー」「グッドフェローズ」のマーティン・スコセッシ。
主演は「ゴッドファーザーPart2」「タクシードライバー」のロバート・デ・ニーロ。
一部を除きモノクロ作品。

[あらすじ]
今作は、実在のボクサーで世界チャンピオンとなった、ジェイク・ラモッタ(ロバート・デニーロ)の半生を追う伝記映画である。
ラモッタは、弟ジョーイ(ジョー・ペシ)をマネージャーに従え、野生的なスタイルで「レイジング・ブル」(怒れる雄牛)と呼ばれ、一世を風靡する。特にシュガー・レイ・ロビンソンとの5度にわたる対戦は語り草となった。
他方、ラモッタは若い女性ビッキー(キャシー・モリアーティー)に強迫的な執着を見せて、次第に周囲と軋轢を生んでいき…。

[情報]
アメリカ映画界の巨匠の1人、マーティン・スコセッシ監督のキャリア初期の作品。
名優ロバート・デ・ニーロとスコセッシが組んだ4番目の作品である。

マーティン・スコセッシは、ニューヨーク市のリトル・イタリーで育った映画監督で、イタリア系マフィアのリアルな描写に定評がある。
音楽の使い方、時代を切り取るセンス、狂気や暴力性の表現、強迫的な男性とそれに振り回される男性のコンビを頻出させる、など、独自の作風を有する。
「タクシードライバー」でカンヌ国際映画祭パルムドールを獲得した他、時代を代表する作品を生み出し続けている。
今作も時代を代表する作品の一つとされる。

今作は、「ミーンストリート」「タクシードライバー」「ニューヨーク・ニューヨーク」でスコセッシとコンビを組んだロバート・デ・ニーロが、スコセッシに持ち込んだ企画である。
当時スコセッシは、「ニューヨーク・ニューヨーク」(1977年)の失敗から立ち直れず、うつ状態(薬物中毒という伝もあり)で入院療養中だったという。
今作は批評的な成功を収め、スコセッシの復活作となった。

ロバート・デ・ニーロは、役作りのために徹底的な準備をする役者として知られる。
ゴッドファーザーPart2の前に実際にイタリアのシチリア島に住んでみた、タクシードライバーの主演の前にニューヨークで実際に3週間タクシードライバーとして働いた、ケープフィアーではわざわざ金を払って歯並びを悪くして、野菜汁を使って上半身に刺青を入れたなど、逸話に事欠かない。
今作は極め付けで、デ・ニーロは、ボクサー時代のラモッタを演じるために実際にボクシングジムに通い、監修のラモッタ本人から指導を受けた。
ラモッタは、デ・ニーロのボクシングの腕に太鼓判を押し、世界ミドル級10位以内の実力がある、と評したという。
さらにデ・ニーロは、引退後のラモッタを演じるために増量し、体重を最大25キロ増やした。
こうした徹底した役作りを評して、「デ・ニーロ・アプローチ」と呼ばれるほどだ。
彼が当代最高の役者、と言われるのも、納得である。
ロバート・デ・ニーロは、今作の演技で、アカデミー賞主演男優賞を獲得している。

今作はアメリカにおいて80年代を代表する作品と評価されており、批評家からも一般層からも高い支持を得ている。
今作はアカデミー賞で8部門にノミネートされ、主演男優賞(デニーロ)、編集賞(セルマ・スクーンメイカー)を受賞した。
映画のオールタイムベスト企画などでしばしば選出される作品の一つである。

セルマ・スクーンメイカーは、スコセッシ作品で多くの編集を手掛ける編集技師である。
彼女は今作、アビエイター、ディパーテッドのスコセッシ監督の三作でオスカーを獲得している。

[見どころ]
映画史上に残る美しい冒頭。
舞うようにシャドーボクシングをするラモッタ/ロバート・デ・ニーロ!!
リアルが過ぎる暴力の発露!人間描写!
嫉妬という強迫観念に囚われた男の狂気と視野狭窄をたっぷり描く!
今作デビューのジョー・ペシとロバート・デ・ニーロが織りなす、スコセッシ作品定番の、男同士の抑圧/被抑圧の関係性!!
ボクシングの試合の超現実的描写の数々!
肉体が壊れる音が鳴る音響!
文字通り吹き出る血飛沫!
歪む顔面!!
同じくボクシング映画でありながら、「ロッキー」と180度異なるテーマ性!

[感想]
超絶名作であることに、異論はない。
デ・ニーロとジョー・ペシの名演。
スコセッシによる芸術的作画。
達人による編集。
その集合体たる名シーンの数々。
では、私が好きな作品か、となると、どうか。

今作は、スコセッシ作品らしく、全編にわたり、男性のオブセッションを描いている。
男の承認欲求と自信のなさが生み出す、醜悪な強迫観念。
そこには救いのかけらも無い。
ラモッタの周囲の人々は、容赦なく,彼のオブセッションに巻き込まれ、肉体的、あるいは精神的に破壊されていく。
ラモッタが全編通じてまるで成長しないのは、絶望的にリアルだ。

こうしたオブセッションの描写は、スコセッシ監督の実体験に根差している、と言われている。
なるほど、理不尽に、弟のジョーイや妻であるビッキーに詰め寄るラモッタの姿は、生々しく、恐ろしい。

その様は、話の通じない、怪物のようだ。
現代の基準に照らすと、存在自体アウトな最低最悪の鬼畜DV野郎だ。
1970-80年代には、その姿が男たちの共感を呼んだ、のであろうか?

今作のボクシングの試合のシーンはどれも芸術的だが、スポーツ的な爽快感や感傷的なドラマは、徹底して排除されている。
そこに描かれるのは、拳を肉体を打ち付ける破壊の様であり、ラモッタのオブセッションの一種の発露である。

ボクシングに纏わる外野の描写も酷薄なまでにリアルで汚い。
八百長、利権、ギャンブル…。

ラモッタは、試合によって一時社会的な成功を得るものの、精神的な満足や強迫観念の昇華を得ることはない。
むしろ、彼はより深みにハマっていくように見える。

引退後、デニーロのでっぷり突き出た中年太りの腹が印象的だ。
クライマックス。
留置所の暗がりの中の印象的な名シーン。
我々は一体、何を見せられたのだろうか。

歴史的名作であることは異論はない。
たしかに、監督も役者も編集も撮影も全部すごい。
しかし、私が今作を好きか、というと、考え込まざるを得ない。
強迫的な男が、ひたすら周囲を疑い、孤独に陥っていくだけの映画。
その様が、達人たちの技を凝らして、異様に迫真性を帯びて、芸術的に描かれる。
これがスコセッシ風味というやつか。
少なくとも、疲れている時に見てリフレッシュできるタイプの映画でないことは間違いない。

[テーマ考]
今作は、ボクサーとして天賦の才能に恵まれながら、自らの強迫観念により、幸せに生きることに失敗した男の、破滅的な人生を描いた作品である。

スコセッシは、最初ラモッタの自伝を読んで、自業自得で幸せを手放した男が、人生と和解する話、と読んだらしい。
自分の半生と重ねるところもあったのだろうか。

しかし、今作のラモッタ、人生と和解できているのかな?
解釈は人それぞれだが…。

むしろ、一部の男性が、女性をはじめとする周囲と信頼関係を築けず、支配、抑圧、暴力に依存して悪循環に陥り、社会的に孤立する様子を活写した点そのものに、今作の資料的な価値があるように思える。
すなわち、今作のテーマは、一部のDV的素養を持つ男性の脆弱性、と言えようか。

1980年という時代は、旧態依然とした男性の独善的振る舞い(=脆弱性)に対して、社会的な問題意識が生じた時代、だったのかもしれない。

今作から得られる教訓は、女性にしつこく「あの男と何を話してたんだよ!」とか尋ねるような束縛系男子とは、きっぱり距離を置こう、ということである。
そういう輩に限って粘着してくるので、タチが悪いのだが。

[まとめ]
ロバート・デ・ニーロのアプローチが炸裂したボクシング映画の名作にして、男性のオブセッションを活写したマーティン・スコセッシ監督の80年代の代表作。

印象に残るシーンは多いが、デ・ニーロとジョー・ペシの会話シーンが特に印象深い。
脈絡なく、突然真顔で妻と他の男の関係を疑い出すデ・ニーロが、その肉体の内在する暴力性も相まって、本当に恐ろしい。