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暗い鏡のニューランドのレビュー・感想・評価

暗い鏡(1946年製作の映画)
3.1
☑️『暗い鏡』及び『未完成喜劇』▶️▶️
戦争終結からそう経ってない頃、一本は国内の粛清が新たに強まってる頃、心理ミステリーサスペンス(ホラーめも)、人気コンビ活力コメディ、という代表的ジャンルへの取り組みの対照的見本例の2本を観る。
『暗い鏡』は、確かによくできていて納得の作品だったが、この時期のシオドマーク作品としては、形を超える熱気を今一つ感じれず、仕事の半ば徹夜明けだったせいもあって、注意力もやや持続できなかった。レンズ半分覆いフィルムを巻き戻してのカメラ内合成と、撮影後の2場面オプチカル合成、後ろ姿や身体部分だけのスタンドインに頼る部分も多く、カメラ内合成は演技がどうしてもおそるおそるめ、オプチカルは経年で現在では劣化し、スタンドインは不自然で、熱気は生まれにくい、からか。
殺人犯は目撃されたが、瓜二つ双子姉妹、容疑者自体どちら? が作劇まで不安定にしてゆく掴み所喪失が、終盤締める。興奮しての利き腕の使いだしも絡めて、「幻覚」演出しての薬漬け·ノイローゼ化で競う相手でなく妹本人を追い詰める姉、妹を装う姉を呼び出し·姉批判を公然と行って反応·凶行を引き出す策の妹の恋人の精神科医、「妹が(誰の予測より早く)自殺した」と電話して·妹を演じてる姉を·自殺は姉と芝居するを引き出す為に呼び戻す警部補、と終盤の鮮やかな確度増してくクリア化の畳み掛けは見事で、デハヴィランドの熱演·一転控えめ演技が浮き立つことのないよう、男優にも芸達者を配し活かしている。
シャープな縦の図へと、くねり前後するカメラワーク、やや俯瞰めの詰めた図で高める緊張感、切返し·トゥショット·鏡·トリック(冒頭街並みのミニチュアも含め)や仕掛けによる揺るがない人間対決の引き締め、流石。とするところだか、 「見た目同じでも、幼児体験によるのか内面分かれ、好かれ嫌われが決まった双子姉妹」「姉は、心·精神が歪み狂い、医者の手に係らないと、2人が競い·ふるい落とされた相手から、妹本人への殺害の方向へ。同じ環境での差異は、運による諦めから、ヌキサシならぬ嫉妬へ」「双子はそっくりと同時に、ある面において正反対。(心のあり方で)君(の方は対照的)なんでそんなに綺麗なんだ」のセンセーショナル·メリハリ狙いは、今日では(当時もだろうが)捻りやリアリティが薄めともなる。
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うとうと続きながら、FAの緊急事態宣言での中止回の振替上映の1本『未完成喜劇』を観る。折からの半右派闘争に引っ掛かる程の、意図的はどれ程あったのか、共産党政府の一時のソ連映画における指導姿勢にも通じるような、大人しく模範的な事なかれ主義への、当たり前の反発が躍動している珍しい作品、少なくとも1957年段階では。過度の誇張が強調されたり、定められたジャンル方向に反するはみ出し·反抗、ばれるような法螺·嘘が跳梁する出鱈目、また人民の思想改造は進展しているのだから社会の一般的現況に対す本質的怒り、それら全ては存在しない筈、そもそも芸術は市井の低い所にへばりついたものなどはなく·高く理想が存在する所からリードしてゆくもの、といったことを党お抱えの名高い批評家に云わせ否定される、長春撮影所での、三本の試作試写連続不評のという、ヤケに近いが何故か活力あるオムニバスに近い作品で、財布·身分証を盗んだ男の転落死で色々廻される·持主の大公司の支配人、一級芸人と法螺吹いてリクエストされると期待以上成果の2人組、使用人目的で呼び寄せた母が·予想外老化→持参壺が高価で態度(たらい回し等)をコロコロ変える『東京物語』的きょうだい、が写されてゆく。劇中劇に主演するのが、映画の始めで帰還の太痩名物コンビ(ローレル·ハーディ似)で、その演技の質は悪趣味とは云わずも、ワルノリまるで配慮せず、ある意味やりたい放題、カメラも『めまい』的抱擁へ回転から始まり、大胆·良識無視に前後·左右動きまくり、コテコテ·押し付けくるベース、素早いカッティングも時に、と模範中国映画をものともしない、痛快さ·悪い人間味そのものが渦巻く。
特に反体制やヤケを体現してるわけでもなく、何気の反右派闘争に繋がる社会の空気への拭い去り感覚·アクションが映画という形を作ってて、かなり素晴らしく·結果当時としては珍しい毒ある成果。
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