教授

はなればなれにの教授のレビュー・感想・評価

はなればなれに(1964年製作の映画)
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2日連続の「追悼ジャン=リュック・ゴダール映画祭」。
満を持しての「はなればなれに」だが、人身事故による電車遅延と、開かずの踏切に道を阻まれ「観に行く」までに疲労困憊。
本日も安定の眠さで、世評の評価とは違いまったく楽しめなかった。
鑑賞コンディションは本当に重要だと認識。

面白くなかったのは映画のせいではない。
恐らくゴダール映画史上、最もポップで映画的空間と快楽に満ちた作品には違いないのだから。
と、思えるほど、画面の力がさりげなく強い。
ベースには、これまでのゴダール作品同様に一応のドラマとストーリーラインがありつつも、重要視されているのは作中の「無為の時間」であり、殺伐した強盗計画も、はたまた歪な三角関係を軸にした恋愛ドラマも唐突且つ、いい加減に処理されている。

それが「傑作」とされている由縁というのも、ある種の俯瞰による滑稽さと、時折見せる現実の中の、社会の内側の「葛藤」に翻弄されるオディール(アンナ・カリーナ)の多層性に尽きる。

フランツ(サミー・フレイ)とアルチュール(クロード・ブラッスール)のホモ・ソーシャル的な関係性。ライバルであり友人であり、という「めんどくさい」関係性。
そこに軸として、あるいは「社会そのもの」として存在するオディール。
「男」という両天秤の重さを、ただただ「秤りにかける」という役を担わされる「受難」にゴダールが浮かび上がらせる「フェミニスト」的な側面や、近年言われる男性性の有害さを滑稽に映しながら。その男性のひとりであるゴダールの「ミソジニック」なアンビバレントさ。

有名で、且つ、人気なダンスシーンの肝は「踊る男女」の映像的抜けの良さ、カタルシス以上に、ダンスから離脱していく男性たちと、ひとり残されるオディールという描写。
非日常にできるだけ耽溺したいという心情で踊り続ける女性に対して、その耽溺を見て途端に冷めてしまう男性たち。
この分かり合えなさと、切なさこそがゴダールのゴダールたるところ。

と、熱く語ることができる素晴らしい作品ではあれど、クタクタだとしっかり楽しめないのでご注意を。
映画の素晴らしさに対して、いち生活者の自分はなんとちっぽけかという思い知らされる。
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