なお

笑の大学のなおのレビュー・感想・評価

笑の大学(2004年製作の映画)
4.2
CSで久しぶりに視聴。
ああ、素晴らしき三谷節。

「ラヂオの時間」が、外部の人間の勝手な提案や指示や思惑で、せっかくのシナリオが、作家が最初に書いたモノとすっかり変貌していく様をドタバタで描いているのとは対照的に、この「笑の大学」では、舞台(映画、そしてテレビドラマも)のシナリオが、いかに、外部の人間の勝手な提案や指示や思惑で、ホン直しを強制的にさせられ、変わっていくのかを、「戦時中における検閲官とシナリオ作家」という器に置き換えて、面白おかしく描いている。

「ラヂオの時間」では、外部からの好き勝手な直し指示を、相当否定的に、相当嫌味をこめて描いていたが、この「笑の大学」では、反対に、案外、外部からの好き勝手な直し指示は、作品のクオリティを高めることにつながるんだぞ、と言っている。

特に、所轄の警察署長の提案で、いきなり大河原という警察官を劇中に登場させろと命じられたクダリ。あのシークエンスで、主人公であるシナリオ作家の椿は、最初、やっつけ仕事とばかりに、まったく脈絡なく、唐突に警察官を劇中に出して、「これでいいんでしょう? ほら、ちゃんといいつけ通りに直しましたよ」と改訂稿を検閲官の向坂に提示する。しかし向坂は一読後に、「警官が生きていない。これじゃあ、ただ、登場しているだけだ。出演する意味がない」と切って捨てる。

これ、実は、シナリオ作家が一番やってはいけないホン直しの作業なのだ。いくら、高圧的なプラットフォーム(テレビ局や劇場)の意向だとしても、言われるままに、劇の内容に深い関わりのない直しをするのは、ダメな作家が陥る一番の過ちなのだ。どれだけ勝手な直し指示だとしても、それを受けた以上は、しっかりと、作品の内容に矛盾しないよう、しっかりと作品に溶け込んだ直しをしないといけないぞ、と三谷幸喜は訴えているのだ。

「ラヂオの時間」では、そういう外部からの無茶苦茶な直し指示によって、グチャグチャになってしまったシナリオであっても、プロの手(ベテラン音響マンやプロの声優や手練の構成作家ら)にかかれば、なんとか面白い作品にすることができるんだ、と主張し、笑いにつなげた。

一方の「笑の大学」では、外部からの勝手な直し指示でさえも、作家がしっかりとしていれば、それをうまく取り入れ、より傑作に仕上げることができるんだぞ、と主張し、笑いにつなげている。

とても勉強になる映画です。
なお

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